【ネタバレあり】右手が語る/騙る物語(『この世界の片隅に』) ― 2016年12月30日 20時26分19秒
前回まで、『この世界の片隅に』原作が持つ幻想/民俗的要素に対してSF/幻想文学の文法による構造解析を試みてきた。
以下はこれまでの考察の基盤ともした考え方でもあるが、原作に関しては、マンガとしての様々な実験手法そのものが、「すずさんの右手」で描かれた(実際に描かれていなくとも、描くことができる/意識の上では描いていたかもしれない)ものとして捉えることができると思われる。
◼︎右手が手にした画材
特に、物語の冒頭と末尾の「年月」以外のサブタイトルの付された短編間では、描かれる対象がリンクしており、また、特に失われた右手が用いる画材もまた、描かれる対象とリンクしている。
「冬の記憶」ー「人待ちの街」
ー短い鉛筆で「鬼イチャン」→ばけもんが描かれる。
「大潮の頃」ー「りんどうの秘密」
ー口紅で座敷童→リンが描かれる。
「波のうさぎ」ー「水鳥の青葉」
ー羽根ペンでさぎ、青葉、波のうさぎが描かれる。
こうしてみると、「鬼イチャン」は、子供の頃に楽描きしすぎてちびた鉛筆で、リンは二葉館を訪ねた際にもらった口紅で、さぎは哲にもらった羽根のペンで描かれているのがわかる。
なお、末尾側にはさらにふたつの短編がある。
「晴れそめの径」
ー地面に石で径子、北條親子、晴美等が描かれる。
「しあはせの手紙」
ー長い鉛筆でヨーコ母娘が描かれる。
ここで、晴美に関わる来歴が地面に石で描かれているのは、すずさんが防空壕で描いた似顔絵に対応しているものと思われる。一方、対応するものがないヨーコ母娘は普通の鉛筆で描かれている。
◼︎水彩画と羽根ペン
これらのエピソード群の中でも、水原哲と青葉をめぐる2篇は基本的には客観視線で描かれたエピソードであり、「右手」の介在は控えめで、「波のうさぎ」ではすずさんの水彩画が哲の去るシーンと同化している点と、着底した青葉を見る哲を見たすずさんが、波のうさぎやさぎを思い描いている程度にとどまる。
これは、前回までの解釈に沿うなら、すずさんの意識が未だ左手の描く歪んだ世界にありながらも、右手の世界の感覚を取り戻しつつあるとも解釈でき、すずさんの精神状態が解離状態から回復するきっかけをつかみつつある、と考えることもできるだろう。
一方で、これらのエピソードには明確な幻想性もなく、「右手」による「語り」=すずさんの現実に対する干渉も特に考えなくてよいと思われる。
◼︎もうひとつの径?
特に対応するエピソードのない「晴れそめの径」は「右手」が石で地面に描いているものとして、駐留軍のジープ、右手を失った姿のすずさんや、(息子の消息を知らせる)手紙を読む刈谷さんなど、すずさんにとっての普通の現実=「左手の世界」の出来事が描かれているように見受けられる。そこで並列に、北條家の過去、径子と晴美のこれまでなど、これもまたすずさんをとりまく現実に属する事柄が描かれている。普通に考えれば、このエピソードに対して、これまで行なってきたような考察を無理に試みる必要はないかもしれない。
しかし、ここで敢えて、このエピソードもまた「右手」によって描かれていることから、「右手」が、あり得る可能性を付随する過去まで含めて「観測」しているとするとどうだろう。
そう考えた場合、ここで「右手」は北條家の人たちの様々な可能性の中から、現実に即した、すずさんの嫁ぎ先としての北條家の人々を「観測」し、描き出したのかもしれない。
仮にここで「右手」が径子や晴美に関わる現実干渉〜径子が別の相手と結ばれ実家を頻繁には訪ねない、晴美が生まれていない、など〜を行なった場合、すずさんの右手が失われることもなく、(これまでに考察してきたような)「語り手」としての「右手」の力は発揮されないため、これらのこれまでに起こった通りの現実を描かざるを得なかったのかもしれない。
とはいえ、一連の解釈を援用すると、仮に「右手」の采配がなかったとすれば、すずさんは北條家に来ず、その世界においては晴美を連れて空襲に遭っていたのは径子であったかもしれない、という点は指摘しておいてもよいかもしれない。
◼︎右手が語る/騙る物語
「りんどうの秘密」においては、「左手の世界」ですずさんが遊郭跡地を訪ねるまでが描かれる一方で、「右手」はりんどう=リンの来歴にまつわる物語を紅で描き、ラストでは紅で描かれたリンとすずさんが重ね合わされるという趣向である。タイトルの「秘密」は、周作とリンの関係をすずさんが気づいているという「秘密」であるとともに、リンの正体という意味での「秘密」でもある。
ここで、右手が紅で「描く/語る」物語によるならば、すずさんが草津の祖母の家で出会った座敷童が、呉にまで行き着き、博覧会場で拾われて遊郭の下働きから遊女になり、周作と出会ったことになっている。普通に読めば、読者は「大潮の頃」との物語の秘密のつながりが明かされたことで、すずさんとリンの不思議な縁に感慨を覚えるだろう。
ところが、作者のこうの先生はここに一つのトリックを使っている。「大潮の頃」はすいかが物語のキーアイテムであり、10年8月の出来事ということになっているのだが、実は呉市主催の博覧会は10年3月頃に開催されており、そこで遊郭に拾われたリンが8月に草津にいるはずがないのである。
このことは、呉市のホームページなどの年表でもすぐわかるが、こうの先生自らも、実は「晴れそめの径」の中に「博覧会は10年春」であることを作者注釈として小さく書き込んでいる。上記の時系列の矛盾は、原作マンガだけを読んでいる人でも、気づける仕掛けになっているのだ。
「りんどうの秘密」が「わかった」と思っていた読者からすると、大いに混乱する仕掛けであるが、これはどういう解釈をすべきだろうか?
比較的素直な解釈をするなら、『この世界の片隅に』原作全体が、すずさんの右手が描く/語る「物語」であり、もともと虚実入り混じっているため、その虚構性を気づく人には気づかせるという意味合いはあるだろう。ただ、それだけであるなら、わざわざ時系列が特定できる博覧会を選んで意図的な矛盾を描く必要はないように思われる。
時系列の矛盾を素直に解釈するなら、座敷童の少女と、リンは実は別人であり、そこにつながりを持たせた「りんどうの秘密」の物語は、右手の(優しい?)嘘なのかもしれない。
あるいは、座敷童の少女とリンは全くの別人ではなく一人の「白木リン」という少女の可能性であり、前回の考察のように、様々な可能性を「観測」できるようになった「右手」は、リンのふたつの可能性を、すずさんが呉で出会ったリンの現実として「観測」し、物語として定着させたのかもしれない。
SF/幻想文学の文脈では、こういった読者を混乱させる仕掛けを「語り/騙り」と呼ぶが、上記の解釈を採るなら、すずさんの失われた右手は、まさに「信頼できない語り手/騙り手」といえるだろう。
◼︎終わりに
3回に渡って、『この世界の片隅に』原作が持つ多層的な構造について、SF/幻想文学の観点で読み解く試みを行なってみた。
勢いで書いた部分も多々あり、また、もとより、こうの先生ご本人が意図していないであろう解釈もあると思うが、私論/試論ということでご寛恕願いたい。
本論では、あくまでも原作ベースでの考察を試みたが、アニメ版は原作に描かれていたことは割愛されていても同じことが起こっていることを示唆するヒントが随所に盛り込まれ、また、原作の実験手法も、可能な限りアニメで可能な近い手法/アニメだからこそ表現できる手法に翻訳されている。そう考えるなら、「すずさんがそこにいる」リアリティを感じさせるアニメ版においても、同じ物語構造は内包されていると考えてよいと思っている。(実際、blogやtwitterでいただいたコメントではアニメ初見でその幻想性を感じられた方はおられるようである)
とはいえ、思考実験的な入り組んだ考察は今回でひと段落としておきたい。
以下はこれまでの考察の基盤ともした考え方でもあるが、原作に関しては、マンガとしての様々な実験手法そのものが、「すずさんの右手」で描かれた(実際に描かれていなくとも、描くことができる/意識の上では描いていたかもしれない)ものとして捉えることができると思われる。
◼︎右手が手にした画材
特に、物語の冒頭と末尾の「年月」以外のサブタイトルの付された短編間では、描かれる対象がリンクしており、また、特に失われた右手が用いる画材もまた、描かれる対象とリンクしている。
「冬の記憶」ー「人待ちの街」
ー短い鉛筆で「鬼イチャン」→ばけもんが描かれる。
「大潮の頃」ー「りんどうの秘密」
ー口紅で座敷童→リンが描かれる。
「波のうさぎ」ー「水鳥の青葉」
ー羽根ペンでさぎ、青葉、波のうさぎが描かれる。
こうしてみると、「鬼イチャン」は、子供の頃に楽描きしすぎてちびた鉛筆で、リンは二葉館を訪ねた際にもらった口紅で、さぎは哲にもらった羽根のペンで描かれているのがわかる。
なお、末尾側にはさらにふたつの短編がある。
「晴れそめの径」
ー地面に石で径子、北條親子、晴美等が描かれる。
「しあはせの手紙」
ー長い鉛筆でヨーコ母娘が描かれる。
ここで、晴美に関わる来歴が地面に石で描かれているのは、すずさんが防空壕で描いた似顔絵に対応しているものと思われる。一方、対応するものがないヨーコ母娘は普通の鉛筆で描かれている。
◼︎水彩画と羽根ペン
これらのエピソード群の中でも、水原哲と青葉をめぐる2篇は基本的には客観視線で描かれたエピソードであり、「右手」の介在は控えめで、「波のうさぎ」ではすずさんの水彩画が哲の去るシーンと同化している点と、着底した青葉を見る哲を見たすずさんが、波のうさぎやさぎを思い描いている程度にとどまる。
これは、前回までの解釈に沿うなら、すずさんの意識が未だ左手の描く歪んだ世界にありながらも、右手の世界の感覚を取り戻しつつあるとも解釈でき、すずさんの精神状態が解離状態から回復するきっかけをつかみつつある、と考えることもできるだろう。
一方で、これらのエピソードには明確な幻想性もなく、「右手」による「語り」=すずさんの現実に対する干渉も特に考えなくてよいと思われる。
◼︎もうひとつの径?
特に対応するエピソードのない「晴れそめの径」は「右手」が石で地面に描いているものとして、駐留軍のジープ、右手を失った姿のすずさんや、(息子の消息を知らせる)手紙を読む刈谷さんなど、すずさんにとっての普通の現実=「左手の世界」の出来事が描かれているように見受けられる。そこで並列に、北條家の過去、径子と晴美のこれまでなど、これもまたすずさんをとりまく現実に属する事柄が描かれている。普通に考えれば、このエピソードに対して、これまで行なってきたような考察を無理に試みる必要はないかもしれない。
しかし、ここで敢えて、このエピソードもまた「右手」によって描かれていることから、「右手」が、あり得る可能性を付随する過去まで含めて「観測」しているとするとどうだろう。
そう考えた場合、ここで「右手」は北條家の人たちの様々な可能性の中から、現実に即した、すずさんの嫁ぎ先としての北條家の人々を「観測」し、描き出したのかもしれない。
仮にここで「右手」が径子や晴美に関わる現実干渉〜径子が別の相手と結ばれ実家を頻繁には訪ねない、晴美が生まれていない、など〜を行なった場合、すずさんの右手が失われることもなく、(これまでに考察してきたような)「語り手」としての「右手」の力は発揮されないため、これらのこれまでに起こった通りの現実を描かざるを得なかったのかもしれない。
とはいえ、一連の解釈を援用すると、仮に「右手」の采配がなかったとすれば、すずさんは北條家に来ず、その世界においては晴美を連れて空襲に遭っていたのは径子であったかもしれない、という点は指摘しておいてもよいかもしれない。
◼︎右手が語る/騙る物語
「りんどうの秘密」においては、「左手の世界」ですずさんが遊郭跡地を訪ねるまでが描かれる一方で、「右手」はりんどう=リンの来歴にまつわる物語を紅で描き、ラストでは紅で描かれたリンとすずさんが重ね合わされるという趣向である。タイトルの「秘密」は、周作とリンの関係をすずさんが気づいているという「秘密」であるとともに、リンの正体という意味での「秘密」でもある。
ここで、右手が紅で「描く/語る」物語によるならば、すずさんが草津の祖母の家で出会った座敷童が、呉にまで行き着き、博覧会場で拾われて遊郭の下働きから遊女になり、周作と出会ったことになっている。普通に読めば、読者は「大潮の頃」との物語の秘密のつながりが明かされたことで、すずさんとリンの不思議な縁に感慨を覚えるだろう。
ところが、作者のこうの先生はここに一つのトリックを使っている。「大潮の頃」はすいかが物語のキーアイテムであり、10年8月の出来事ということになっているのだが、実は呉市主催の博覧会は10年3月頃に開催されており、そこで遊郭に拾われたリンが8月に草津にいるはずがないのである。
このことは、呉市のホームページなどの年表でもすぐわかるが、こうの先生自らも、実は「晴れそめの径」の中に「博覧会は10年春」であることを作者注釈として小さく書き込んでいる。上記の時系列の矛盾は、原作マンガだけを読んでいる人でも、気づける仕掛けになっているのだ。
「りんどうの秘密」が「わかった」と思っていた読者からすると、大いに混乱する仕掛けであるが、これはどういう解釈をすべきだろうか?
比較的素直な解釈をするなら、『この世界の片隅に』原作全体が、すずさんの右手が描く/語る「物語」であり、もともと虚実入り混じっているため、その虚構性を気づく人には気づかせるという意味合いはあるだろう。ただ、それだけであるなら、わざわざ時系列が特定できる博覧会を選んで意図的な矛盾を描く必要はないように思われる。
時系列の矛盾を素直に解釈するなら、座敷童の少女と、リンは実は別人であり、そこにつながりを持たせた「りんどうの秘密」の物語は、右手の(優しい?)嘘なのかもしれない。
あるいは、座敷童の少女とリンは全くの別人ではなく一人の「白木リン」という少女の可能性であり、前回の考察のように、様々な可能性を「観測」できるようになった「右手」は、リンのふたつの可能性を、すずさんが呉で出会ったリンの現実として「観測」し、物語として定着させたのかもしれない。
SF/幻想文学の文脈では、こういった読者を混乱させる仕掛けを「語り/騙り」と呼ぶが、上記の解釈を採るなら、すずさんの失われた右手は、まさに「信頼できない語り手/騙り手」といえるだろう。
◼︎終わりに
3回に渡って、『この世界の片隅に』原作が持つ多層的な構造について、SF/幻想文学の観点で読み解く試みを行なってみた。
勢いで書いた部分も多々あり、また、もとより、こうの先生ご本人が意図していないであろう解釈もあると思うが、私論/試論ということでご寛恕願いたい。
本論では、あくまでも原作ベースでの考察を試みたが、アニメ版は原作に描かれていたことは割愛されていても同じことが起こっていることを示唆するヒントが随所に盛り込まれ、また、原作の実験手法も、可能な限りアニメで可能な近い手法/アニメだからこそ表現できる手法に翻訳されている。そう考えるなら、「すずさんがそこにいる」リアリティを感じさせるアニメ版においても、同じ物語構造は内包されていると考えてよいと思っている。(実際、blogやtwitterでいただいたコメントではアニメ初見でその幻想性を感じられた方はおられるようである)
とはいえ、思考実験的な入り組んだ考察は今回でひと段落としておきたい。
コメント
_ あたろ ― 2017年02月09日 00時54分24秒
_ あたろ ― 2017年02月09日 01時26分49秒
ただ、これは映画から「この世界の片隅に」に入り
すずさんの実在感・この映画内容の現実性重視
演出に直球で煽られたうえで、登場するすべてを現実の表現として汲み取ったもの、、なので、例えば
座敷わらし は、いわゆる文明化が進む前はよくあった貧困家庭から抜け出したり、遊びに混ざり込んだりしていた逃げて来た子ども
だとか、話は変わりますが、
鎌鼬(妖怪かまいたち) は、江戸時代などには地面が舗装もなにもなかったのに加え、ガラスやら刀のカケラやらが道に落ちていたせいで、強風の日にはそれらが舞い上がって通行人を傷つけるのを風の中に妖怪がいることにした。
などの実証観寄りの視点です。
ご容赦されたく。
すずさんの実在感・この映画内容の現実性重視
演出に直球で煽られたうえで、登場するすべてを現実の表現として汲み取ったもの、、なので、例えば
座敷わらし は、いわゆる文明化が進む前はよくあった貧困家庭から抜け出したり、遊びに混ざり込んだりしていた逃げて来た子ども
だとか、話は変わりますが、
鎌鼬(妖怪かまいたち) は、江戸時代などには地面が舗装もなにもなかったのに加え、ガラスやら刀のカケラやらが道に落ちていたせいで、強風の日にはそれらが舞い上がって通行人を傷つけるのを風の中に妖怪がいることにした。
などの実証観寄りの視点です。
ご容赦されたく。
_ たこい ― 2017年02月09日 22時06分34秒
コメントありがとうございます。
今回の3エントリに及ぶ試論/私論、もとより「これがただ一つの解釈」と考えている訳ではなく、自分の中でも、さまざまな解釈があり、これはその中の一つ、SF/幻想文学の観点で原作『この世界の片隅に』に散りばめられた数多くのパーツをパズルのように組み合わせてみる思考実験であり、考えている間、非常に楽しい時間を過ごしました。
コメントされた、右手の描くものがすずさんの想像力で描かれている、という解釈もおおいに賛成するところではありますが、多少気になるところがありますので、いくつか回答してみます。
>>右手で紅を使って語られる場面(その他、タッチを変えてすずの視点で描かれるシーンex)ラスト近くのワニ)ですが、あれはすずさんの想像力で世界を見たときの表現であるのだと考えます。
→自分の試論でも、二つ目のエントリにおいて、すずさんにとっては世界は自分が右手で絵に描けるものとして認識されていたのだろう、と述べておりますので、上記の点には大いに同意します。
>>想像も現実を元にはするので、博覧会などリアルもきちんと取り込みはするものの、フィクションの印も、きちんと追えば印がついているのだと思います。なぜなら、これ自体が漫画だから。
→自分の解釈では、その「フィクションの印」がまさに本エントリで「騙り」として着眼点とした「時系列の矛盾」そのものだと考えています。
この矛盾という「印」があることで、口紅で描いたリンの物語は時系列的にあり得ないもの=フィクションであることを明示していると思います。
>>彼自身は、明治〜昭和中期ほどまでは普通にいたヤミ関係者であり、リアルであると思います。なぜなら、すずと周作が拐われて橋の上を通るとき、すずの視点外の人物によって認識されているからです
→一つ目のエントリで立論の際に述べている通りですが、自分の論はあのばけもんが「実体のあるリアルな存在である」ことを前提にしています。
なお、原作ではご指摘の通り、ばけもんの横を通る母娘が二人ともばけもんに気付いているような描かれ方ですが、映画においては、幼い娘には見えているが、母親の方には見えていないように描かれていますね。
その「実体のあるばけもん」は妖怪であってもいいし、ヤミ関係者であってもいい、その背景に「ひょっとして鬼いちゃん?…だったらいいな…」という物語を与えるものが、自分の試論では「失われた右手の力」として論じましたが、もちろんそれが「すずさんの想像力」であってもいいと考えます。
片渕監督はいくつかの談話で語っているように「現実にあった何らかの事件がすずさんにとってはあのような物語になった」というスタンスですので、その「事件」がヤミ関係者による周作とすずさんの誘拐であった、というのは監督のスタンスに合う解釈であると思います。
>>だからワニが手を振りかけてくれるのではないでしょうか。 全体としてリアルを追求する作風があるので、あの表現は、騙り、とかではなく、純粋に人の物の見方を表したもの、と見るのが、作品の誠意にしっかり向き合った所だと思います。
→このあたりのコメントにはいろいろと混乱があるように思います。
まず、自分が「騙り」として取り上げたものは先に述べた通り「りんどうの秘密」における「時系列の矛盾」のみであり、ばけもんとの再会のくだりまで「騙り」として論じたつもりはありませんのでご理解ください。
また、ワニが手を振りかけてくるのは映画版の表現であり、自分の試論は随所で強調している通り、原作を対象にしたものである点もご理解ください。
>>もちろん、騙り、と片付けこともできます。りんどうの秘密の中身を、これだけ誠実に作られている漫画作品のなかの描写ミス、の様に捉えることもできます。
→こうの先生は、膨大な資料を自分で読み込んで『この世界の片隅に』を描いており、誠実な作者であると自分も考えます。原作全体に描き込まれた膨大な情報、ヒントが周到に配置されているのを実感するにつれ、この作品はさらっと読み流せるような作品ではないと考えます。
「晴れそめの径」においては、同じコマに「デートする若き日の径子さん」と「リンとおもわれる浮浪児を連れた婦人」が描かれ、その箇所に作者からの補足として「博覧会は昭和10年春開催」との記載があります。もちろん、「りんどうの秘密」においても博覧会の名前は明示されています。一方で、座敷童の登場する「大潮の頃」は10年8月と明示され、スイカのある夏の物語です。
これは意図的に描き込まれ、配置されたものであり、「描写ミス」として片付けられるものではないでしょう。自分はこれを「作者からの挑戦状」ととらえ、出来うる限り誠実に考察を試みたつもりです。その結果が本エントリです。
なお、SF、幻想文学の観点では、「語り/騙り」「信頼できない語り手/騙り手」といった表現は、多様な解釈を内包しうるマジックリアリズム的な作品に対する最上級の褒め言葉なのですが、「騙り」という語感から作品を軽んじているように感じられたようであれば、その点はお詫びします。
最後になりましたが、自分が「すずさんが本当にいるように描く」片渕監督の創作姿勢をとても大事に思っていることは一つ目のエントリでも書いた通りです(そのため、一連の試論は基本的には「原作」への考察として展開させています)。
今回の3エントリに及ぶ試論/私論、もとより「これがただ一つの解釈」と考えている訳ではなく、自分の中でも、さまざまな解釈があり、これはその中の一つ、SF/幻想文学の観点で原作『この世界の片隅に』に散りばめられた数多くのパーツをパズルのように組み合わせてみる思考実験であり、考えている間、非常に楽しい時間を過ごしました。
コメントされた、右手の描くものがすずさんの想像力で描かれている、という解釈もおおいに賛成するところではありますが、多少気になるところがありますので、いくつか回答してみます。
>>右手で紅を使って語られる場面(その他、タッチを変えてすずの視点で描かれるシーンex)ラスト近くのワニ)ですが、あれはすずさんの想像力で世界を見たときの表現であるのだと考えます。
→自分の試論でも、二つ目のエントリにおいて、すずさんにとっては世界は自分が右手で絵に描けるものとして認識されていたのだろう、と述べておりますので、上記の点には大いに同意します。
>>想像も現実を元にはするので、博覧会などリアルもきちんと取り込みはするものの、フィクションの印も、きちんと追えば印がついているのだと思います。なぜなら、これ自体が漫画だから。
→自分の解釈では、その「フィクションの印」がまさに本エントリで「騙り」として着眼点とした「時系列の矛盾」そのものだと考えています。
この矛盾という「印」があることで、口紅で描いたリンの物語は時系列的にあり得ないもの=フィクションであることを明示していると思います。
>>彼自身は、明治〜昭和中期ほどまでは普通にいたヤミ関係者であり、リアルであると思います。なぜなら、すずと周作が拐われて橋の上を通るとき、すずの視点外の人物によって認識されているからです
→一つ目のエントリで立論の際に述べている通りですが、自分の論はあのばけもんが「実体のあるリアルな存在である」ことを前提にしています。
なお、原作ではご指摘の通り、ばけもんの横を通る母娘が二人ともばけもんに気付いているような描かれ方ですが、映画においては、幼い娘には見えているが、母親の方には見えていないように描かれていますね。
その「実体のあるばけもん」は妖怪であってもいいし、ヤミ関係者であってもいい、その背景に「ひょっとして鬼いちゃん?…だったらいいな…」という物語を与えるものが、自分の試論では「失われた右手の力」として論じましたが、もちろんそれが「すずさんの想像力」であってもいいと考えます。
片渕監督はいくつかの談話で語っているように「現実にあった何らかの事件がすずさんにとってはあのような物語になった」というスタンスですので、その「事件」がヤミ関係者による周作とすずさんの誘拐であった、というのは監督のスタンスに合う解釈であると思います。
>>だからワニが手を振りかけてくれるのではないでしょうか。 全体としてリアルを追求する作風があるので、あの表現は、騙り、とかではなく、純粋に人の物の見方を表したもの、と見るのが、作品の誠意にしっかり向き合った所だと思います。
→このあたりのコメントにはいろいろと混乱があるように思います。
まず、自分が「騙り」として取り上げたものは先に述べた通り「りんどうの秘密」における「時系列の矛盾」のみであり、ばけもんとの再会のくだりまで「騙り」として論じたつもりはありませんのでご理解ください。
また、ワニが手を振りかけてくるのは映画版の表現であり、自分の試論は随所で強調している通り、原作を対象にしたものである点もご理解ください。
>>もちろん、騙り、と片付けこともできます。りんどうの秘密の中身を、これだけ誠実に作られている漫画作品のなかの描写ミス、の様に捉えることもできます。
→こうの先生は、膨大な資料を自分で読み込んで『この世界の片隅に』を描いており、誠実な作者であると自分も考えます。原作全体に描き込まれた膨大な情報、ヒントが周到に配置されているのを実感するにつれ、この作品はさらっと読み流せるような作品ではないと考えます。
「晴れそめの径」においては、同じコマに「デートする若き日の径子さん」と「リンとおもわれる浮浪児を連れた婦人」が描かれ、その箇所に作者からの補足として「博覧会は昭和10年春開催」との記載があります。もちろん、「りんどうの秘密」においても博覧会の名前は明示されています。一方で、座敷童の登場する「大潮の頃」は10年8月と明示され、スイカのある夏の物語です。
これは意図的に描き込まれ、配置されたものであり、「描写ミス」として片付けられるものではないでしょう。自分はこれを「作者からの挑戦状」ととらえ、出来うる限り誠実に考察を試みたつもりです。その結果が本エントリです。
なお、SF、幻想文学の観点では、「語り/騙り」「信頼できない語り手/騙り手」といった表現は、多様な解釈を内包しうるマジックリアリズム的な作品に対する最上級の褒め言葉なのですが、「騙り」という語感から作品を軽んじているように感じられたようであれば、その点はお詫びします。
最後になりましたが、自分が「すずさんが本当にいるように描く」片渕監督の創作姿勢をとても大事に思っていることは一つ目のエントリでも書いた通りです(そのため、一連の試論は基本的には「原作」への考察として展開させています)。
_ あたろ ― 2017年02月10日 12時42分37秒
お返事ありがとうございました。
「騙り」のところは、大いに私の教養不足でおかしな反応をしていまい申し訳ありません。
今後作品を読み込む際、大変参考にさせて頂こうとおもいます。
どうもありがとうございました。
「騙り」のところは、大いに私の教養不足でおかしな反応をしていまい申し訳ありません。
今後作品を読み込む際、大変参考にさせて頂こうとおもいます。
どうもありがとうございました。
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どうも、閲覧させていただきました。
右手で紅を使って語られる場面(その他、タッチを変えてすずの視点で描かれるシーンex)ラスト近くのワニ)ですが、あれはすずさんの想像力で世界を見たときの表現であるのだと考えます。水原さんに描いた絵が背景に切り替わるのは「ほんと、ウサギみたい」のあとですし、広島から飛ばされてきた障子に絵が映るのはすずさんの回想だし、その右手タッチの絵のシーンが作中にはっきり戻る様子は、すずの心の回復に重なります。「りんどうの秘密」は、もういなくなってしまったリンの、しかしすずは覚えているリンの、持っていた秘密を、スイカの話で思い出と繋ぎ合わせて「もしかしたら…」とすずさんが想像している物語なのではないでしょうか。想像も現実を元にはするので、博覧会などリアルもきちんと取り込みはするものの、フィクションの印も、きちんと追えば印がついているのだと思います。なぜなら、これ自体が漫画だから。ラストのバケモン(彼自身は、明治〜昭和中期ほどまでは普通にいたヤミ関係者であり、リアルであると思います。なぜなら、すずと周作が拐われて橋の上を通るとき、すずの視点外の人物によって認識されているからです)のカゴからワニがタッチを変えて出てくるのは、直前の鬼いちゃんの前シーンから、あれを見てすずさんが「ひょっとして鬼いちゃん?…だったらいいな…」とふと心馳せた表現。だからワニが手を振りかけてくれるのではないでしょうか。 全体としてリアルを追求する作風があるので、あの表現は、騙り、とかではなく、純粋に人の物の見方を表したもの、と見るのが、作品の誠意にしっかり向き合った所だと思います。
もちろん、騙り、と片付けこともできます。りんどうの秘密の中身を、これだけ誠実に作られている漫画作品のなかの描写ミス、の様に捉えることもできます。
が、私としては、上の すずさんの想像 表現を漫画媒体のなかで 絵として用い、作品として挑戦しているのではないかと思います。
きっとそのくらい誠実な作者さんであろう、と。