2016年11月に読んだ本2016年12月04日 21時14分28秒

 11月は『この世界の片隅に』関連書籍が中心であまり冊数は進まず。原作マンガもひたすら読み返しているので、12月も余波が続きそうかな。

■施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』 3巻 (IDコミックス REXコミックス)」一迅社
読了(2016-11-07) ☆☆☆☆

 ド嬢が「本を読んでいる」のが本巻最大の衝撃! 友人関係が続く中で、お互いの関係性が深まっているのが感じられて楽しい。本を読む友だちがいることの楽しさが感じられてマル。

■『「この世界の片隅に」公式アートブック』 宝島社
読了(2016-11-13) ☆☆☆☆

 呉市立美術館で開催されていた展覧会の解説コメントはほぼこのアートブックと内容がリンクしており、実質的にはこの展覧会の図録といえるかと思う。
 この展覧会、『この世界の片隅に』原作の全ページ原画と劇中に登場する品々の現物などがつぶさに確認できる力入りまくりの圧倒的な情報量だったので、その肝の部分が何度でも再確認できるのはうれしい。

■深緑 野分『分かれ道ノストラダムス』 双葉社
読了(2016-11-13) ☆☆☆★

 ノストラダムスの大予言とオウム真理教をモチーフにした一作。同じようなモチーフで世紀末リアルタイムで発表されていた先駆的作品には陽気碑の短編「世界が終わるのを待てない」(『えっちーず』シリーズの中の短編で二つの短編がペアとなっている)があるが、こちらの方がよりサイコで、スペクタクル要素もあり。
 なお、作者のツイートによると、物語の背景となるヒロインのちょっと痛ましい想い出には、作者の実体験もモチーフになっているとの由。
 ちょっと前に読んだ粕谷知世『終わり続ける世界のなかで』はノストラダムスの大予言が当時の少年少女にもたらした(一種の)呪いからの解放の物語であったが、こういったモチーフの作品はこれからもいろいろな作家から出てくるのかもしれない。

■「この世界の片隅に」製作委員会『この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集』 双葉社
読了(2016-11-19) ☆☆☆☆☆

 絵コンテには呉の空襲に来たパイロットの名前まで書いてある、とネットで書かれていたので該当のシーンを確認してみたら、ホントに書いてあった。映像ではそこまでは伝わらないが、すずさんたちにとっては脅威でしかない戦闘も人間の営みのひとつ、ということなのかも。あのシチュエーションで円太郎父ちゃんが自分の仕事の成果(紫電改に搭載された2000馬力エンジン)をしみじみと語ることとも通じるのか。
 これは一例で、映像だけでは読み取れない(あえて読み取れなくてもよい)演出意図をじっくり考察することができる、映画『この世界の片隅に』鑑賞の最強のガイドブック。
 惜しむらくは、劇場版準拠で割愛されているシーンもあるようなので、そっちも読んでみたいように思う。

■七月 鏡一・早瀬マサト『幻魔大戦 Rebirth』 4巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 小学館
読了(2016-11-26) ☆☆☆★

 表紙のイラストに描かれている通り、前巻ラストからの引きで「神話前夜の章」の世界からルーフとジンが参戦、さらに丈のいない東京で三千子を守るのはミュータント・サブと月影! ウルフガイの設定を引きつつ、敵方の過去のエピソードは『デスハンター/死霊狩り』も思わせる。まさにスーパー平井&石森大戦の様相だが、ここまで風呂敷広げて大丈夫か!?

■西尾 維新『掟上今日子の家計簿』 講談社
読了(2016-11-27) ☆☆☆★

 シリーズの中では定型フォーマットとなりつつある、4人の警部が依頼する事件の解決を今日子さんが行なう形式の定型アンソロジー。このシリーズは、種々のミステリの定型に「忘却探偵」を当てはめた時におこる異化効果を楽しむ趣向といえるだろう。
 ということで、今回も種々の定番トリックを今日子さんにぶつける趣向。叙述トリックの回の謎解きが別のトリックで、別の回のトリックが(結果的に)叙述トリックになっていたりする「外し」がけっこう楽しい。

【ネタバレあり】左手が描く物語(『この世界の片隅に』)2016年12月11日 20時17分28秒

 原作『この世界の片隅に』の実験的マンガ手法は数々ある。筆だけで描く、作中で描いている絵が物語の一部になる、羽ペンを自作して描く、左手で描く、口紅で描く…など、これらは、実験ギャクマンガでつとに知られる唐沢なをき氏と同様に「その手法で描くことが面白い」あるいは「その手法だからこそ成立するネタがある」など、マンガの技術的な面白さに主眼をおいて語られることが多かったように思われる。

 しかし、前回、原作の物語構造を解析してみて、それらの手法の中に、その手法で描くことと物語構造が密接にリンクしていると思われる箇所が多いことに改めて気がついた。
 比較的わかりやすい?ところでは、物語序盤から随所に挿入されているすずさん作のマンガ「鬼イチャン」や口紅で描かれる「りんどうの秘密」については前回の考察に含めたが、そのポイントは、それらが「右手が描いた(架空の?)物語」であることを、物語そのものの内容だけでなく、手法によっても、より際立たせている、と言えるだろう。
 それであるならば、その実験手法のうち「左手で描いた」箇所にも「左手が描いた(現実の?)物語」という暗喩があったりはしないだろうか。

◼︎心象風景としての「左手が描く背景」
 こうの先生が語るところによると、すずさんが右手を失う展開は連載開始前から構想されており、左手で背景を描くための練習も連載前から行ない準備していた(しかも練習しすぎて上手くなり過ぎないよう、必要なレベルに達したところで練習を止めておいた)とのこと。
 このことは、「左手で描く背景」が作品の構想、構成の上で、そこまでする必要のある重要な要素であったことをうかがわせる。

 その第一の目的は、一読して明らかな通り、右手を失ったすずさんの「歪んでしまった」心象風景であろう。この時のすずさんがおそらく離人症の状態にあったことを、マンガならではの手法で表現しているといえる。
 離人症の症状を表現する言葉を探してググってみたところ、ちょうどよいサイトをみつけた。

https://hapila.jp/depersonalization

 離人症とは、どこか現実感のない、自分と周囲の現実の間にオブラートでもかぶっているような感覚だが、上記サイトではこの症状の特徴を以下のように表現している。(自分にも経験はあるのだが、下記はなかなか的確な表現だと思う)

・時空の歪み
・もう一人の自分が、現実の自分を見ているように感じる
・周りに見える世界と、自分との距離感における違和感
・明晰夢
・感情や欲がなくなる

 左手による描線の歪みは、「時空の歪み」や「世界と自分の距離感における違和感」を、ダイレクトに表現するものだろう。「明晰夢」と解釈できるシーンはないものの、これは夢の中の自分を客観視するもう一人の自分がいる、という点で、「もう一人の自分が〜」と近い症状であり、これは原作の作中ではすずさんの(他の登場人物から見える)行動と、それと噛み合わないモノローグの並列という手法でも表現されている。特に、呉を訪ねてきたすみちゃんとの楽しげな姉妹の会話と裏腹の醒めたモノローグは「感情がなくなる」ことを示す表現でもあるだろう。

 時限弾頭から呉の大空襲まで落ち着く間もなかったであろうすずさんが、「自分の右手がもうない」ことをはっきり自覚したページからこの「歪んだ背景」が始まり、最終回、広島で周作と再会し、孤児を連れて呉に帰り着いたページでその歪みが回復する、というのは、抑鬱状態の始まりから回復までの心の動きを表現する手法として(マンガという媒体だからこそ成立させうる心理表現として)極めて優れた到達点と言えると思う。

◼︎すずさんの世界
 『この世界の片隅に』においては様々な実験的手法が試みられていることは既に述べた通りであり(本稿末尾にそれらの手法を簡単にまとめてみた)、それらの手法がここまでの考察のヒントとなっている。しかし、ここまで考察してくると、逆に一見実験的に見えていない手法の中にも、ヒントがありそうに思えてくる。
 そう思って再読をしてみると、気になる手法がある。一見すると、資料写真のある実在の建物を描写している箇所ではないかと推察されるのだが、建物の輪郭をはっきりとは描かず、斜線を主体にスケッチ風に描く手法である。
 この手法は『夕凪の街 桜の国』でも、原爆ドームなどを描く箇所に用いられており、連載開始前に描かれた「冬の記憶」においてもすずさんが歩く中島本町の風景などがこの手法で描かれている。

 こうの先生が膨大な資料を元に本作を描いたことは知られており、これらの写生的な表現はコミックス巻末に書かれたこうの先生のコメント「間違っていたなら教えてください 今のうちに」という言葉に象徴される、背景資料の存在を暗示する表現でもあるのだろう。
 とはいったものの、本作においては(『夕凪の街 桜の国』と比べてみても)この手法が印象的な場面に多用されているように見受けられる。それは、単に参考資料の存在を示すためだけに使われているのだろうか。

 『夕凪の街 桜の国』と本作の最大の違いとしては、「すずさんは絵を描く人」である点を挙げることができるだろう。すずさんが広島に里帰りするエピソードでは、名残を惜しむように広島の街を写生するすずさんの姿が描かれているが、ここでは、作中の背景だけでなく、すずさんのスケッチブックに描かれる絵も、同様のタッチで描かれていることに気がつかされる。
 これは、シンプルに解釈するなら、すずさんの画力が写実的な域にあることを示しているわけだが、それだけだろうか。このタッチの背景は、すずさんが一人で行動しているシーンに使われていることが多い。これは、すずさんにとって、周囲の世界は「そのようなもの」として認識されている、ということを意味しているのかもしれない。

 すずさんは、子供の頃から暇さえあれば絵を描いていた訳だが、目で見たものを紙の上に描きとることは、すずさんにとっては手足を動かす、指を動かすなどの身体の動作の延長で、身体感覚の一部にまでなっていたのではなかろうか。スケッチ風に描かれた背景は「すずさんにとって「世界」は「自分の右手で描くことのできるもの」として認識されていた」ことを示している、と解釈してみよう。
 「大潮の頃」が筆でざっくり描かれているのは、幼少の頃のおぼろげな記憶としての表現であるとともに、その当時のすずさんが、まだ拙いながらも、やはり「右手で描ける絵」として世界を認識していた(その当時の画力が認識していた世界の姿を左右する)ことをも暗示しているのかもしれない。「波のうさぎ」ですずさんが画用紙に描いていた絵が哲の立ち去る風景に融合しているのも同じ解釈が可能だろう。
 そう考えるなら、その身体感覚、世界認識の方法そのものが「右手」とともに失われることは、すずさんにとっては、まさに「世界」そのものが姿を変えることを意味していたと解釈できるだろう。

◼︎「右手の世界」と「左手の世界」の乖離と統合
 SF的な考え方では、量子力学の考え方を援用した「世界の観測」がよく用いられる。前回の考察に用いたいわゆる「シュレディンガーの猫」についても、不確定な状態にある猫の生死を確定させるのは蓋を開けた人による「観測」である。「誰もいない森の中で木が倒れたら…」の例え話とも相通じる要素があるが、「知性/意識を持った存在が観測することで世界が決定される」というモチーフは形を変え、数々のSFのアイデアを生み出してきた。
 この「世界の観測」が文明・知性体レベルで共有されているという設定からは、ジェイムズ・ブリッシュ『時の凱歌』やバリントン・J・ベイリー『時間衝突』のような壮大なスケールの作品が生まれるし、クリストファー・プリーストの『魔法』、『双生児』、『夢幻諸島から』などは、登場人物一人一人が異なる世界を「観測」しているために、視点人物により異なる現実の間に(読者からみて)齟齬が起きていることをうかがわせる描写が特徴である。

 ここで、すずさんの「身体感覚としての世界認識」にこの考え方を組み合わせてみると、すずさんは単に目で見る、耳で聞くなどの五感に加えて、「右手で描く」ことまで含めて世界を「観測」していたことになる。そのため、右手が失われることで認識する世界が変貌することは先に指摘した通りだが、実は、失われた右手の方にも、「観測者」としての力があったと解釈するとどうだろう。本来一人の人間に属していた「観測者」の力が、ここで二つに分裂したのではないか。

 もちろん、失われた右手は単独では物理的存在を維持できないが、四肢のどれかを失った人が、あるはずのない手や足に感覚(幻肢)や痛み(幻肢痛)を感じることがあることは知られている(医学的には、脳内に元の四肢のあった際の神経のネットワークが残っているためではないか等と推察されているようである)。
 すずさんの意識に備わっていた「観測」のうち、左手をもつ肉体の方は、今まで通り周囲の人々と同じ現実を「観測」し続けるが、幻肢となった右手は、「左手の世界」から乖離して、別の現実を「観測」しうる状態となり、さらには「描く」ことで「観測」したもう一つの現実を、同じ意識でつながっているすずさんの現実の一部とするできるようになったのかもしれない。

 この「右手の世界」と「左手の世界」の乖離には、「観測」の主であるすずさんの意識が、離人症によって「時空の歪み」や「もう一人の自分が、現実の自分を見ているように感じる」ような状態にあったことも関係していると考えることもできるかもしれない。意識が乖離状態になることが、すずさんにとっての世界をも乖離させるトリガーとなったと考えることも出来るだろう。
 そして、すずさんの意識が「右手の世界」による癒しともいえる現実干渉を経るとともに、気持ちの上でも「右手のない自分」を受け入れたことで、最終的に「左手の世界」と「右手の世界」が統合されていったのだろう。

 前回は、「すずさんの右手」が「語り手」であることを前提となる仮定として考察を進めたが、今回の考察では、なぜ「右手」がそのように機能できるのか、に関してSF的仮説を提案できたように思う。

■最後に
 前回の考察「右手が描く物語」を『SF/幻想文学の観点から『この世界の片隅に』(原作)の物語構造解析をしてみた(原作を繰り返し読んでいる方向け)』としてツイートしてみたところ、思いのほかいろいろな人に読んでもらえたようであった。
 ということで、さらに姉妹編として考察を進めてみた。例によって書き進めながら試行錯誤したが、なんとか、ちょうど対になる考察にたどり着けたような気がする。こうの先生がどこまで確信犯で仕組んだものかは知るすべもないが、改めて深堀のしがいのある原作であることを実感した次第である。


<参考:各回の手法一覧>
冬の記憶:特になし
大潮の頃:筆描き
波のうさぎ:風景画を描く過程、マンガと作中の風景画の一体化
第1回18年12月:波のうさぎと同じコマ割り
第2回19年2月:特になし
第3回19年2月:すずさんの葉書、時間変化のコマ割り
第4回19年2月:筆描き、隣組ミュージカル
第5回19年3月:裁縫手順の図解
第6回19年3月:特になし
第7回19年4月:回覧板がコマに
第8回19年5月:調理手順の図解、筆描きの楠木公
第9回19年5月:特になし
第10回19年6月:小松菜の間引きと建物疎開
第11回19年7月:特になし
第12回19年7月:特になし
第13回19年8月:サイレント
第14回19年8月:特になし
第15回19年9月:サイレント
第16回19年9月:特になし
第17回19年10月:特になし
第18回19年10月:サイレント+回想並列
第19回19年11月:特になし
第20回19年11月:人生相談
第21回19年12月:特になし
第22回19年12月:羽根ペン
第23回20年正月:愛國いろはかるた
第24回20年2月:特になし
第25回20年2月:特になし
第26回20年3月:サイレント
第27回20年3月:特になし
第28回20年4月:特になし
第29回20年4月:すずさんのノート
第30回20年5月:鎮守府年表
第31回20年5月:特になし
第32回20年6月:地図
第33回20年6月:鉛筆画
第34回20年7月:特になし
第35回20年7月:左手背景
第36回20年7月:左手背景
第37回20年8月:左手背景
第38回20年8月:左手背景
第39回20年8月:左手背景
第40回20年9月:左手背景
第41回りんどうの秘密:左手背景、口紅画
第42回晴れそめの径:左手背景、道路上の絵?
第43回水鳥の青葉:左手背景、青葉と波のうさぎ、さぎ
第44回人待ちの街:左手背景、鬼イチャン冒険記
最終回しあはせの手紙:左手背景、鉛筆画、水彩画

※特に印象的と思われたものをピックアップした。これ以外にも細かくあげられる手法も多々あると思うが、あくまでも考察の参考としてのリストである点はご理解いただきたい。

【ネタバレあり】右手が語る/騙る物語(『この世界の片隅に』)2016年12月30日 20時26分19秒

 前回まで、『この世界の片隅に』原作が持つ幻想/民俗的要素に対してSF/幻想文学の文法による構造解析を試みてきた。
 以下はこれまでの考察の基盤ともした考え方でもあるが、原作に関しては、マンガとしての様々な実験手法そのものが、「すずさんの右手」で描かれた(実際に描かれていなくとも、描くことができる/意識の上では描いていたかもしれない)ものとして捉えることができると思われる。

◼︎右手が手にした画材
 特に、物語の冒頭と末尾の「年月」以外のサブタイトルの付された短編間では、描かれる対象がリンクしており、また、特に失われた右手が用いる画材もまた、描かれる対象とリンクしている。

「冬の記憶」ー「人待ちの街」
 ー短い鉛筆で「鬼イチャン」→ばけもんが描かれる。
「大潮の頃」ー「りんどうの秘密」
 ー口紅で座敷童→リンが描かれる。
「波のうさぎ」ー「水鳥の青葉」
 ー羽根ペンでさぎ、青葉、波のうさぎが描かれる。

 こうしてみると、「鬼イチャン」は、子供の頃に楽描きしすぎてちびた鉛筆で、リンは二葉館を訪ねた際にもらった口紅で、さぎは哲にもらった羽根のペンで描かれているのがわかる。
 なお、末尾側にはさらにふたつの短編がある。

「晴れそめの径」
 ー地面に石で径子、北條親子、晴美等が描かれる。
「しあはせの手紙」
 ー長い鉛筆でヨーコ母娘が描かれる。

 ここで、晴美に関わる来歴が地面に石で描かれているのは、すずさんが防空壕で描いた似顔絵に対応しているものと思われる。一方、対応するものがないヨーコ母娘は普通の鉛筆で描かれている。

◼︎水彩画と羽根ペン
 これらのエピソード群の中でも、水原哲と青葉をめぐる2篇は基本的には客観視線で描かれたエピソードであり、「右手」の介在は控えめで、「波のうさぎ」ではすずさんの水彩画が哲の去るシーンと同化している点と、着底した青葉を見る哲を見たすずさんが、波のうさぎやさぎを思い描いている程度にとどまる。
 これは、前回までの解釈に沿うなら、すずさんの意識が未だ左手の描く歪んだ世界にありながらも、右手の世界の感覚を取り戻しつつあるとも解釈でき、すずさんの精神状態が解離状態から回復するきっかけをつかみつつある、と考えることもできるだろう。
一方で、これらのエピソードには明確な幻想性もなく、「右手」による「語り」=すずさんの現実に対する干渉も特に考えなくてよいと思われる。

◼︎もうひとつの径?
 特に対応するエピソードのない「晴れそめの径」は「右手」が石で地面に描いているものとして、駐留軍のジープ、右手を失った姿のすずさんや、(息子の消息を知らせる)手紙を読む刈谷さんなど、すずさんにとっての普通の現実=「左手の世界」の出来事が描かれているように見受けられる。そこで並列に、北條家の過去、径子と晴美のこれまでなど、これもまたすずさんをとりまく現実に属する事柄が描かれている。普通に考えれば、このエピソードに対して、これまで行なってきたような考察を無理に試みる必要はないかもしれない。
 しかし、ここで敢えて、このエピソードもまた「右手」によって描かれていることから、「右手」が、あり得る可能性を付随する過去まで含めて「観測」しているとするとどうだろう。
 そう考えた場合、ここで「右手」は北條家の人たちの様々な可能性の中から、現実に即した、すずさんの嫁ぎ先としての北條家の人々を「観測」し、描き出したのかもしれない。
 仮にここで「右手」が径子や晴美に関わる現実干渉〜径子が別の相手と結ばれ実家を頻繁には訪ねない、晴美が生まれていない、など〜を行なった場合、すずさんの右手が失われることもなく、(これまでに考察してきたような)「語り手」としての「右手」の力は発揮されないため、これらのこれまでに起こった通りの現実を描かざるを得なかったのかもしれない。
 とはいえ、一連の解釈を援用すると、仮に「右手」の采配がなかったとすれば、すずさんは北條家に来ず、その世界においては晴美を連れて空襲に遭っていたのは径子であったかもしれない、という点は指摘しておいてもよいかもしれない。

◼︎右手が語る/騙る物語
 「りんどうの秘密」においては、「左手の世界」ですずさんが遊郭跡地を訪ねるまでが描かれる一方で、「右手」はりんどう=リンの来歴にまつわる物語を紅で描き、ラストでは紅で描かれたリンとすずさんが重ね合わされるという趣向である。タイトルの「秘密」は、周作とリンの関係をすずさんが気づいているという「秘密」であるとともに、リンの正体という意味での「秘密」でもある。
 ここで、右手が紅で「描く/語る」物語によるならば、すずさんが草津の祖母の家で出会った座敷童が、呉にまで行き着き、博覧会場で拾われて遊郭の下働きから遊女になり、周作と出会ったことになっている。普通に読めば、読者は「大潮の頃」との物語の秘密のつながりが明かされたことで、すずさんとリンの不思議な縁に感慨を覚えるだろう。
 ところが、作者のこうの先生はここに一つのトリックを使っている。「大潮の頃」はすいかが物語のキーアイテムであり、10年8月の出来事ということになっているのだが、実は呉市主催の博覧会は10年3月頃に開催されており、そこで遊郭に拾われたリンが8月に草津にいるはずがないのである。
 このことは、呉市のホームページなどの年表でもすぐわかるが、こうの先生自らも、実は「晴れそめの径」の中に「博覧会は10年春」であることを作者注釈として小さく書き込んでいる。上記の時系列の矛盾は、原作マンガだけを読んでいる人でも、気づける仕掛けになっているのだ。
 「りんどうの秘密」が「わかった」と思っていた読者からすると、大いに混乱する仕掛けであるが、これはどういう解釈をすべきだろうか?
 比較的素直な解釈をするなら、『この世界の片隅に』原作全体が、すずさんの右手が描く/語る「物語」であり、もともと虚実入り混じっているため、その虚構性を気づく人には気づかせるという意味合いはあるだろう。ただ、それだけであるなら、わざわざ時系列が特定できる博覧会を選んで意図的な矛盾を描く必要はないように思われる。
 時系列の矛盾を素直に解釈するなら、座敷童の少女と、リンは実は別人であり、そこにつながりを持たせた「りんどうの秘密」の物語は、右手の(優しい?)嘘なのかもしれない。
 あるいは、座敷童の少女とリンは全くの別人ではなく一人の「白木リン」という少女の可能性であり、前回の考察のように、様々な可能性を「観測」できるようになった「右手」は、リンのふたつの可能性を、すずさんが呉で出会ったリンの現実として「観測」し、物語として定着させたのかもしれない。
 SF/幻想文学の文脈では、こういった読者を混乱させる仕掛けを「語り/騙り」と呼ぶが、上記の解釈を採るなら、すずさんの失われた右手は、まさに「信頼できない語り手/騙り手」といえるだろう。

◼︎終わりに
 3回に渡って、『この世界の片隅に』原作が持つ多層的な構造について、SF/幻想文学の観点で読み解く試みを行なってみた。
 勢いで書いた部分も多々あり、また、もとより、こうの先生ご本人が意図していないであろう解釈もあると思うが、私論/試論ということでご寛恕願いたい。
 本論では、あくまでも原作ベースでの考察を試みたが、アニメ版は原作に描かれていたことは割愛されていても同じことが起こっていることを示唆するヒントが随所に盛り込まれ、また、原作の実験手法も、可能な限りアニメで可能な近い手法/アニメだからこそ表現できる手法に翻訳されている。そう考えるなら、「すずさんがそこにいる」リアリティを感じさせるアニメ版においても、同じ物語構造は内包されていると考えてよいと思っている。(実際、blogやtwitterでいただいたコメントではアニメ初見でその幻想性を感じられた方はおられるようである)
 とはいえ、思考実験的な入り組んだ考察は今回でひと段落としておきたい。