2017年5月に読んだ本2017年06月03日 07時37分39秒

 5月は主にたまっていた評論誌とケン・リュウ。ここには書いていないけど、SFセミナーで入手したはるこんブックス『天球の音楽』もセミナーからの帰途に一気読み。いやあ、次の短編集も待ち遠しいねえ。

■「フリースタイル35 「時間と空間をつくる」片渕須直×安藤雅司」 フリースタイル
読了(2017-05-06) ☆☆☆☆

 メイン企画の「片渕須直×安藤雅司・時間と空間をつくる」をお目当てに久しぶりに買ったフリースタイル。『この世界の片隅に』公開後、どんどん企画される片渕監督のインタビューや対談の中でも、もっともアニメ制作の「技術」にフォーカスした内容で、スタッフでアニメを観てしまうアニメージュ世代にとってはかゆいところに手が届く良対談。それ以外のコラム、記事も楽しく、一冊の隅から隅まで楽しみました。

■「ユリイカ 2016年11月号 特集=こうの史代 ―『夕凪の街 桜の国』『この世界の片隅に』『ぼおるぺん古事記』から『日の鳥』へ」 青土社
読了(2017-05-13) ☆☆☆☆

 出てすぐに買ったけど、思いのほか読み応えがあったので、まずはアニメ関連の記事、評論を読んだ後、ぽつぽつ読み進めていた。あらためて、こうの史代というマンガ家のすごさを実感した。読んでない作品もちょっとずつ補完していきたい。

■ケン・リュウ『もののあはれ (ケン・リュウ短篇傑作集2)』 早川書房
読了(2017-05-21) ☆☆☆☆

 新☆ハヤカワSFシリーズ版から2分冊された文庫の2冊目。叙情性や市井の視線〜ミクロの視線〜を感じさせる文庫版「紙の動物園」、と比べ、シンギュラリティテーマを中心に、宇宙、進化というマクロの視線に振り切ったSF作品集。こうしてみると、この2分冊はアンソロジーとして大正解だ。

■ケン・リュウ『母の記憶に』 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ(早川書房)
読了(2017-05-27) ☆☆☆☆★

 待望のケン・リュウ日本オリジナル短編集の第二弾。偶然だが、母の日に所用で実家に向かう車中で読み始めた。各作品とも、この手できたか、と唸らされる好短編集ではあるものの、特に表題作や冒頭の数編は親子関係がモチーフで、シチュエーション的にちょっと複雑な気分で読み進めた。
 第一弾の『紙の動物園』(SF・シリーズ版)と比べると、やや長めの中編がいくつか収められていること、また『蒲公英王朝記』に通じる中国的な要素が色濃い作品の比率が高めで、「ケン・リュウ博覧会」的なバラエティ感としてはやや偏りを感じるものの、それでもなお、シンプルなアイデアSF、本格SFミステリから歴史小説、寓話的な小説まで、様々な作品が堪能できる。
 また、各短編の読後感がそれぞれに深く、傑作ぞろいであり、この中からベストを選ぶ、とするとおおいに悩ましい、贅沢な短編集である。

<参考:シミルボンに投稿したレビュウ>
https://shimirubon.jp/reviews/1682209

■佐藤ジュンコ『佐藤ジュンコのひとり飯な日々 (コーヒーと一冊)』 ミシマ社
読了(2017-05-29) ☆☆

 仙台のいくつかのお店で食べたり飲んだりする、ゆるいエッセイコミック。「コーヒーと一冊」というこの本そのもののコンセプト通り、一気読みするよりは、喫茶店にでも置いて、注文したコーヒーを待ちながらてきとうにめくったページを読むのにはいいだろう。

2017年4月に読んだ本2017年05月05日 17時23分43秒

 4月は呉弾丸ツアー(笑)とかいろいろあった割にはいろいろ読んだ、かな。まあ、小説成分は少なめだけど。

■こうの史代・蒔田陽平『ノベライズ この世界の片隅に』 双葉社(双葉社ジュニア文庫)
読了(2017-04-07) ☆☆☆

 呉への車中で読了。ノベライズとしてはまずまず無難で、可もなし不可もなしか。読んでいて思ったのは、小説として主筋を通すためにはアレ(察してください(笑))はやっぱり省略できないし、補足説明も必要だ(原作にも映画にもない裏話がある!)、ということがわかる感じの内容だった。
 一方、あれだけばっさりやって違和感なく観れてしまう映画版は、実はすごくトリッキーなことをしているのだ、と逆説的に実感できた。

■江國香織『なかなか暮れない夏の夕暮れ』 角川春樹事務所
読了(2017-04-11) ☆☆☆☆★

 旧作でいえば『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』に近いだろうか。多数の登場人物の関係性が入り組んだ「恋愛運動小説」の系譜ではあるが、主要登場人物の年齢層が上がっているあたりは年齢なりの経験や視点が反映されてもいるのだろう。
 『薔薇の木〜』のような、小刻みに視点人物が入れ替わる構成の中に、主人公が没入して読んでいる本のエピソードが作中の現実と区別なしに挿入され、フィクションが現実を緩やかに侵食していくトリッキーな秀作。やっぱり江國香織は曲者だ。

■吉田秋生『海街diary 8 恋と巡礼』小学館(フラワーコミックス)
読了(2017-04-16) ☆☆☆☆★

 吉田秋生、もはや鉄板のシリーズの最新刊。普通に日常を過ごす人々が背景に持つ傷と向き合い、先に進んでいく姿をゆったりと描き続けてきた本作においては、「新しい命の誕生」もさまざまな影響をもたらす。
 画風の変遷という観点では、吉田秋生史上、実は今がいちばん少女マンガっぽい画風になっているかもしれない。『カリフォルニア物語』あたりのドライ感とも、『吉祥天女』あたりの大友克洋リスペクトなカチっとした絵柄とも、『BANANA FISH』後期あたりのシャープで耽美なタッチとも異なる曖昧さ、柔らかさを感じさせる画風が本作にはよく合っていると思う。
 そういえば、悲劇をことさらに強調せずに日々の暮らしを描いていく、というスタンスの点ではこうの史代作品とも通じるものがあるかな、と思ってしまうのは病膏肓に入るというべきか(笑)。

■『旅と鉄道 2017年 05 月号「鉄道×アニメ 聖地巡礼」』 朝日新聞出版
読了(2017-04-17) ☆☆☆☆

 鉄ちゃんじゃないので初めて買ったこの雑誌。表紙や巻頭グラビア特集は『君の名は。』なんだけど、『君の名は。』については、ほぼ鉄道が登場するシーンのスチール写真による特集で、モデルとなった電車や駅との対照も少なく、テキストも少ない。その一方で、『この世界の片隅に』に関しては広島、呉を『鉄子の旅』で有名な編集者が実際に探訪した詳細なレポート、市電車両や鉄道関連のもろもろに関する解説記事、囲みコラム、2泊3日の推奨ルートの提案まで、盛りだくさん。さらには、近年のアニメのキー作品群も多数取り上げており、大充実の内容。編集サイドの本気感が感じられる。

■国谷裕子『キャスターという仕事』 岩波書店(岩波新書)
読了(2017-04-19) ☆☆☆☆

 すみません。国谷さんのことはNHKのアナウンサーかと思っていました(実際はNHKと出演契約を交わしたフリーのキャスター)。ご本人のキャスターとしてのキャリアの開始から、クローズアップ現代の舞台裏、そして不祥事の顛末や降板の経緯に到るまで、ここまで書いていいのか、と思えるほど詳細に書かれている。日本の視点から見た国際政治史としても読めるのがすごい。

■ケン・リュウ『紙の動物園 (ケン・リュウ短篇傑作集1)』 早川書房(ハヤカワ文庫SF)
読了(2017-04-22) ☆☆☆☆

 新☆ハヤカワSFシリーズ版から2分冊された文庫の1冊目。バラエティ豊かなてんこもりの印象だったSFシリーズ版と比べ、表題作「紙の動物園」を含め、ノスタルジーを感じさせる物語、虐げれられた存在をめぐる物語などを集めることで、ややトム・リーミィ的な味わいを感じさせる短編集になった。あらためて、アンソロジーのセレクト、収録順の意義を感じさせられた。

■七月鏡一・早瀬マサト『幻魔大戦 Rebirth』5巻 小学館(少年サンデーコミックススペシャル)
読了(2017-04-22) ☆☆☆★

 過去の幻魔作品、石森作品、平井作品へのリスペクトが一巡し?かなりオリジナル要素が出てきた第5巻。そんな中でも、表紙にも登場するベアトリスの簪と元GENKEN愚連隊?の田崎の登場にぐっときた。

■デヴィッド・ビアンキ・関 美和『お父さんが教える 13歳からの金融入門』 日本経済新聞出版社
読了(2017-04-29) ☆☆☆

 金融関連の基礎知識を簡潔にわかりやすく紹介。
 おとなもよんだほうがいいとおもうよ。

■「ビール王国 Vol.14 2017年5月号」 ワイン王国(ワイン王国 別冊)
読了(2017-04-29) ☆☆☆★

 2回に分けてアメリカ特集とのこと。今回はアメリカンホップの総覧が大充実の内容。日本生まれのアメリカンホップ、ソラチエースの話も載ってます。
 因みに、ソラチエースの研究は今年の日本農芸化学会で大会トピックス賞をいただきました。

■那州雪絵『魔法使いの娘ニ非ズ』7巻 新書館(ウィングス・コミックス)
読了(2017-04-30) ☆☆☆☆

 『魔法使いの娘』から始まったシリーズの本筋たる父娘の関係をめぐる物語がついに完結。それは「人生」そのものをめぐる物語でもあり、大団円というより、割り切れないものも残しつつの一区切、その先の物語への余韻を残すあたりが那州雪絵品質。
 こういう物語の描き手って、少年マンガにも少女マンガにも青年マンガにもいないと思うんだよねえ…。次回作はどういう作品になるかわからないが、今後とも追いかけていきたい。

【私家版】細かすぎて伝わらないこの世界の片隅にの好きなシーン2017年04月29日 12時17分31秒

 twitterの『この世界の片隅に』応援トレンドとして「#細かすぎて伝わらないこの世界の片隅にの好きなシーン」ハッシュタグに投稿したツイートがちょっとたまってきたので、自分のツイートをまとめてみた(若干の所感や背景も追加コメントを入れてみた)。

■波のうさぎを描くシーンで、松の枝、松の葉、地面の草まで風で揺れてる。 宮崎駿が『トトロ』で当時やりたかったけどできなかったと言っていた描写はこういう感じだろうと思った。

(所感)『となりのトトロ』ロマンアルバムのロングインタビューでは、宮崎駿が木の葉や草の葉が風で揺れる様子まで描き込みたかった、という趣旨の発言をしている。次作『魔女の宅急便』では冒頭から草原の草が風にそよいでいるが、その演出を担当したのは若き日の片渕監督であろう。
 該当のシーンでは、本当に細部まで風で揺れている。アニメ撮影がデジタル化される前ではここまで手間をかけた動かし方はできなかっただろう。

■里帰りした浦野家で、すずさんの昔の習字や絵が壁のつぎあてに使われてるが、チラッとしか見えないけど、ふすまに貼られてる(ちゃぶ台のお父さんの後ろあたり)のはたぶん「ばけもん」の絵。もしかして後のばけもん=鬼イチャンを暗示?

(所感)絵コンテでは該当の「ばけもん」の絵は半分くらいに切られて壁の方に貼られているので、本編で「鬼イチャン」がいるべき位置の近くに「ばけもん」が配置されたことには何らかの演出意図があると考えてよいのではないか。

■原作ではわかりにくいけど、映画ではユーカリの樹皮が剥けて幹が木肌の色になっているところ。ユーカリの特徴ですね。

(所感)原作では意外とユーカリの登場箇所が少なく、また白黒なので幹の状態まではわかるシーンがない。このあたりは映画にする段階でしっかり考証されているのだろう。
 このユーカリについては別エントリにもコメントしました。
http://k-takoi.asablo.jp/blog/2017/01/28/8338051

■「自慢の竹槍があるじゃないですか」のやりとりの後ろで「あ〜、すずさん、またやらかしちゃった」という感じの顔してる晴美ちゃん。

(所感)まるで姉妹のように生活してきた二人のこれまでが窺い知れる演出。それだけにこの後の展開が…(涙)。

■空襲警報の中3人逃げている人影の1人が転ぶ時に女性の「きゃ」という声が小さく聞こえた。朝すれ違った挺身隊の子たちなんだと気がついたら涙が…

(所感)昨年12/3に片渕監督が浜松に来られた際のトークショーで、呉の報国隊の少女たちを作品の中に登場させて欲しい、という要望があり、物語の中で自然に登場させられるシーンとして、3人が病院に向かう朝の駅前を設定したとのこと。ここで彼女たちがうたっている歌は「悲しくてやりきれない」と同じサトウハチロー作詞の歌を選んだとのこと。
 なお、映画を観た呉の方の中からは、あの女の子たちを当時見た、というコメントもあったとのこと。

■アニメ版だと、慟哭の後、畑に咲いている花は晴美さんとの想い出の暗喩になっていることに7回目でやっと気づいた。
 右手が現れるシーン(原作から改変)の前に入る回想シーンともつながりますね。

(所感)ここは映画のオリジナル。周作が電話ですずさんを呼び出すシーンの前に、映画ではすずさんと晴美ちゃんがカボチャを収穫し、そのカボチャに晴美ちゃんの顔を描いている。
 慟哭のシーンの台詞の改変はよく語られているが、原作では慟哭しているすずさんの頭を右手が触れた後、枯れていたカボチャに花が咲いており、「右手の奇跡」?を思わせるが、映画では慟哭から顔をあげてカボチャの花を見て、夕食でいっしょに魚の絵を描いた晴美ちゃんを思い出したところで、いたわるように右手がすずさんのあたまをなでていくという演出になっている。

■鬼イチャンの南洋冒険記を描く右手が持っているチビた鉛筆には「ウラノ」の名前が(三文字全部は見えてないけど)。

(所感)これは原作準拠ですが、いずれにしても細かいですね。

■里帰りの時に産業奨励館をスケッチして自分の姿を書き加えたすずさん、後に焼跡に来た時の構図がそのスケッチと同じになっている。さらに、右手がヨーコ親子を描き出した構図も同じ。
 右手の描いた絵で、母親はヨーコと左手をつないでいる。そして実は、焼跡のすずさんから見て左手側に、ヨーコらしき孤児が既に描かれている。

(所感)晴美ちゃんと左手をつないでいれば、というのはすずさんが「選ばんかった道」、母と左手をつないでいたヨーコはその道の象徴か。この点についてはスガシカオさんの考察が深いです。
https://ameblo.jp/shikao-blog/entry-12228363796.html

■自分のモガ時代の服は物々交換に出したけど、「晴美の去年の服」は残していた径子さん。

(所感)その大事な形見の服を躊躇なくヨーコちゃんにあてがおうとする径子さんが好きです。

■ラストシーンの北條家の俯瞰でユーカリの木がもうない。劇中では端折られてるけど一月遅れの迷惑な神風の名残かな。(絵コンテには「崖崩山もだいぶ片付いている」との説明あり)

■映画では割愛されている円太郎父ちゃんの資材横領クワ(笑)がEDでしっかり実用に使われている。

(所感)この2件は割愛された台風が起こっていたことを示すもの。因みに、原作では台風の中すみちゃんの手紙を届けに来る郵便配達の女性は円太郎さんの無事の知らせを持ってくるシーンで出てきてますね。

■口紅で描かれた、幼いすずさんとリンさんが手をとりあって遊ぶ情景、あれは現実には交わされることのなかった「明日の約束」だったのでは。

(所感)これは原作の「りんどうの秘密」にはない。『マイマイ新子と千年の魔法』を再見して、上記の考察に思い至った後は、このシーンで涙が止まりません。冒頭のタンポポと「明日の約束」は二作を地続きに感じさせる象徴と思います。

片渕須直監督トークショー@大和ミュージアム(『この世界の片隅に』)2017年04月16日 08時06分37秒

 4/8(土)に呉の大和ミュージアムで開催された片渕須直監督のトークショー、珍しくメモを取りながらしっかり聞いたので、簡単にレポートしてみます。テープ起こしとかではなく、監督のしゃべりを再現しきれないので、文章はこなれてないままなのはご容赦を。

■<「マイマイ新子探検隊」と「この世界の片隅に探検隊」について>
◇前作『マイマイ新子と千年の魔法』公開前の2009年8月に防府の小学校で、映画の舞台をめぐる初めての「マイマイ新子探検隊」が行なわれた。片渕監督も参加したかったが、日程が『マイマイ新子〜』世界初公開となったロカルノ映画祭と重なっていたため断念。そこで(?)2回目からは探検隊を大人でのっとろうか、ということになった。
◇『この世界の片隅に』の映画を作ろう、とおもったのは2010年8月ごろ。
◇2011年5月に初めて広島へ。その際集まった人たちが今回のトークショー&スタンプラリーの実行委員の元になった。
◇広島では毎年「ここまで出来ています」という報告をしてきたが、7年越しになってしまった。

■「この世界の片隅に」を支援する呉・広島の会あいさつ等
◇会長の大年さんからあいさつ。
 この映画の成功を確信したのは、パイロットフィルムを観たときと、公開半年前に監督から「今までにない画期的なものになる」という自信の発言を読んだときだった。
◇さらに、片渕監督への記念品贈呈。
 千幅の大吟醸に「提督」ラベルがあるが、今回は特別に「監督」ラベルのボトルを贈呈(いっしょに地サイダーの「監督」ラベルも)。みなさん、この「監督」の文字を見てなにか気づきませんか?
→こうの史代先生の手になる「監督」ラベルでした。

■<今回のスタンプラリーについて>
◇「この世界の片隅に探検隊」の第1回はYouTubeに動画があがっている。実は第0回は「マイマイ新子探検隊」の後、有志でそのまま呉で探検隊をした。
◇今回のスタンプラリーはもともと「この世界の片隅に探検隊」のために日程を確保してあったのだが、映画がヒットしてしまい、今やったら人が集まりすぎて大変なことになるだろう、ということで、片渕監督がいっしょに回る探検隊ではなくスタンプラリーという形式にしてみた。(ほとぼりがさめたら探検隊もやりたい)
◇今日のトークショーは、片渕監督が引率できないので、スタンプラリーで回る場所についての解説をメインに。

■<呉の成り立ちと町割り>
◇(今日も雨模様でガスっているが)呉の気候は海沿いというより高原に近いように思う。
◇明治20年に海軍が来ることになった。それまでは湿地帯だった。埋め立てて町割りをしたが、この時、碁盤の目状の町割りが計画された。『マイマイ新子〜』の防府も都として碁盤の目になっているが、防府も呉も町の幅が一町(約110m)になっているのは偶然だが面白い。
◇(縦の通りは)最初に本通(眼鏡橋の前の通り)を作ったが、これを計画より狭い幅に作ってしまった。他の通りは本通より狭く作ることになっていたので、さらに狭くなったが、このため、あとあと困ることになったようだ。
◇(横の通りは)呉駅から山側に向かって順に一丁目、二丁目〜となっていてわかりやすい(今は番地が変わっているが、片渕監督は古い番地で覚えてしまっている)。昔は市電が通っていた三丁目が一番広い通りで他の通りは今より狭かったが、現在、三丁目にかかっている堺橋が当時のままであり、それで通りの広さも同じ。今は後から拡張した二丁目の方が広い通りになっている。
◇堺橋からの市電が本通で曲がっているところが四ツ道路。
◇(当時の呉の町の写真を示しながら)当時の写真は軍の検閲で呉市内の山の稜線が消されている。地図でも、軍事施設の部分は白紙になっている。

■<眼鏡橋界隈>
◇(Googleマップを示しながら)本通は眼鏡橋に通じているが、JRの高架から向う(旧下士官兵集会所方面)は昔のままの道幅になっている。今の本通は戦後拡張されて広くなっている。
◇昔の眼鏡橋界隈を写した写真(昭和10年11月)に、呉−三原間開通記念絵葉書がある。JRの高架の鉄橋はこの写真に写っているものが今もそのまま使われている。建物だけでなく、こういった写真の細部に映っているバスやタクシーの看板、通行人の服装等が当時を知る手がかりとなる。
◇「眼鏡橋」はこのJRの鉄橋のことではなく、鉄橋から旧下士官兵集会所の間に河があり、今は暗渠になっている。

■<呉の町の広がり>
◇呉の町はもともとの町割りの埋め立て地から山側に広がっていった。
◇北條家はその広がった呉の一番隅に位置している。すずさんは広島でも隅の方の江波に住んでいた。すずさんは「少し離れたところからものを見ていた人」。
◇呉の町は一丁目から九丁目までは碁盤の目になっている。十丁目、十一丁目あたりは曲がっている。
◇昭和10年頃は呉市電は広まで通じていなかった。当時の終点は遊郭のある朝日町。広までは乗り換えが必要だったが、これは広への山越えをするためにパワーのある別の電車が必要だったため。市電が広まで通じてからは十三丁目が遊郭の最寄駅となった。十四丁目にラリーのポイントである千幅の工場がある。
◇五丁目から九丁目あたりがいわゆる「れんが通り」(すずさんと周作さんがデートした通り)。

■<ここでうっかり!?>
◇ところで、うっかりしてましたがこの中に映画まだ観てない人いますか?
→大丈夫でした(笑)。

■<本通と市電>
◇「白いすずさん」が歩いているのは本通七丁目(映画では市電とすれ違うあたり)。ここにあったのが原作では(晴美ちゃんの入学用品の)買い物で出てきた福屋百貨店だった。
◇福屋百貨店は広島にもある(すずさんがスケッチしている)が、広島の次には呉にできた。
◇本通は眼鏡橋まで通じているので、ここですずさんはまっすぐ歩いただけ(この前に迷ったので、まっすぐくればいいように周作さんが電話で指示したかも?)。
◇(絵コンテのシーン637)この時の市電の電車は…(といいながらPhotoshop起動)
◇(その前のシーン636が表示されたので)すずさんがおしろいをはたいているシーンのレイヤーをちょい見せ(動かすためのパーツの分割を図解)。
◇さらにシーン637の市電と白いすずさんのシーンのレイヤーもちょい見せ。
◇(市電の話に戻って)この時の呉市電がストリートビューで見ると呉市内のある場所にあります(屋根を載せたりして倉庫になっている)。
→監督はまだ読まれてなかったようですが、倉庫として活用されているこの市電車両の話は「旅と鉄道」5月号でレポートされています。

■<福屋百貨店の今昔>
◇当時の福屋百貨店の場所は今は道路に(先に述べた戦後、拡張された部分にあたる)、ただし、建物は道路拡張以前に空襲ですでになくなっていた。
◇原作では昭和20年3月にこの福屋に買い物にくる描写があるが、福屋はその時期、広島でも呉でも営業はしておらず、店舗はさまざまな事務所等として使われていた。
◇映画の該当のシーンでは、市電のバックにある建物は百貨店の看板が外されている(因みにこの建物は福屋百貨店として建てられたものではなく、福屋になる前に2回くらい別の店として営業していたもの)。
◇モガ時代の径子さんが歩いているシーンで幼い周作さんが覗き込んでいるショーウィンドウがこの福屋で、径子さんの前の建物は正法地帽子店。
◇白いすずさんのシーンは径子さんのシーンと構図がほぼ90度の関係。ここでも営業していない福屋の向かいには「正法地帽子店」が描かれている。
→お話聞いて「すごい!」と思ったら、あとで見返したロケ地マップにはこの位置関係がしっかり描かれてました。さすが! というか細かすぎる(笑)。

■<花開いていた日本・自らを閉ざした日本>
◇因みに、営業していた福屋百貨店の店名の看板の下にはライトがあり、昭和15年には看板がライトアップ(!)されていた(該当のシーンは昼間だが、ライトはちゃんと描いてある)。
◇本通にはいわゆる「すずらん灯」があった。映画冒頭の中島本町にも「すずらん灯」がある。全国で「すずらん通り」という名前が残っている場所は、同様のすずらん灯があった通りで、呉では本通、中通にあった。これらは昭和16年の金属供出で姿を消した。
◇すずらん灯の写っている写真を見ると、電灯の上に光っている曲線が映っている。藤田画伯が当時の呉を描いた絵を見るとすずらん灯に赤い線が描かれており、光っていたのは赤いネオンだったことがわかる。
◇映画冒頭の中島本町でもレコード屋の「コロンビア」の看板は夜になると光る(点灯している写真あり)。映画は昼だが、横から描かれている看板は厚みがあり、この中には電球が入っている。
◇昭和11年の広島商業学校のレポートで、看板の文字の右書き、左書きや照明、ネオンサインなどを調査したものがある。因みに結論は「赤だけのネオンサインはださい(意訳)」というもので、既にカラフルなネオンサインが登場していたことが伺われる。
◇中島本町のレコード屋やヒコーキ堂(おもちゃ屋)は建物疎開でなくなった。
◇こうしてみると、昭和10年代の日本では、カラフルな電飾もあり今に通じるものがある。日本は戦後花開いたのではなく、一度花開いていたのを、自ら閉ざした。
(すずさんも小学校のころはいていたスカートがはけなくなっていった)

■<海軍の機密!?>
◇ここで、すずさんと周作さんのデートシーンの絵コンテをPCで探している中、映画にないシーンの絵コンテ(絵コンテ集にも未収録。上記のシーン近く、といえばどのシーンかわかりますね)が画面にうつってしまい、「見なかったことにしてください」と監督(笑)。

■<下士官兵集会所>
◇海軍の土地は下士官兵集会所の向うから(下士官兵集会所には家族も出入りしていたため)。
◇入口の写真を見ると「販売所?」の文字を外した跡がある。ここをマーケットにする(した?)が住民の反対運動があった。今で言えばイオンの進出に反対するようなものか。写真を見ると、兵の家族以外の一般の人も出入りしていたのかもしれない。
◇戦後の写真を見ると下士官兵集会所は白黒で迷彩塗装されている。

■<眼鏡橋界隈>
◇眼鏡橋の前の海軍入口の門の写真を見ると、ある時期から門が広くなっている。住民が集まるイベントがあった際に、狭い門に人が押し寄せて圧死する人が出たことがあり、それ以降広くしたらしい。
◇眼鏡橋は、当時の写真を見ると、眼鏡と言ってもアーチは一つしかなく片眼鏡だったようだ。

■<繁華街と映画館>
◇中通に紀伊国屋があったが、写真は南京陥落時のネオンだらけのものしかなく、戦中どうだったかがわからなかったので映画には登場させていない。
◇映画に出てくる映画館「地球館」「喜楽館」は実在。「地球館」は当時の中通八丁目で、その場所は今はカラオケ屋の前にある駐車場になっている。
◇水兵さんたちが上陸している桟橋は今のフェリー乗り場。この会場(大和ミュージアム)のすぐそば。

■<小春橋で水道管マニア狂喜!?>
◇デートの後の小春橋のシーンで、二人のいる小春橋の後ろの橋は堺橋なので市電が走っている。堺橋のたもとには消防署があり、ランドマークの櫓がある。
◇市電のレールは少し前に二河橋から当時のものがでてきた。あれは埋め戻したと思いますが…(ここで、「撤去したそうです」と事務局の方から補足あり)…あ、そうなんですか、もったいないなあ。
◇消防署の前に警察署があり、空襲時に燃える警察署に消火活動している写真がある。この時放水しているのは15歳くらいの少年消防士だった。
◇焼け跡の写真に当時の小春橋が写っているが全体の形がわからない。いくつか写真を探して橋の形を割り出した。
◇写真を見ると、小春橋のところには水道橋が通っていたが、細かい形状がわからない(中央には突起のようなものがある)。周辺を調べると今も水道橋が残っているところがあり、それを参考にした。突起は空気抜きのバルブだった。
◇このバルブを映画に描いたところ、水道マニアの方が熱狂したらしい。

■<呉はスクラップ&ビルドの町>
◇ラストシーンのマーケットは中通。ここはちょうどデートの時に映画館があった場所。
◇米軍の残飯雑炊で「UMA〜」していた闇市は四つ道路のあたり。今は駐車場になっている。
◇下士官兵集会所に使われていたスクラッチタイルは呉の海岸沿いのあたりにまだ残っているところがある。
→スクラッチタイルは現在の青山クラブでも、屋上付近に一部残っているので注意してみるとみつかる。監督は映画の下士官兵集会所の参考にしたかもしれない(某呉市学芸員さんの談)。
◇広島と呉を比べてみると、広島は城下町だったので、昔からのものが残っている場所が今でもあるが、呉はもともと明治以降の町で、スクラップ&ビルドを繰り返してきた町といえるかもしれない。
◇(建物疎開後の航空写真を示しながら)黒村時計店は市電の角あたりにあったと想定している(周作さんが建物疎開を目撃したのは本通)。
→この写真は解像度が高く、拡大すると遊郭の門の前の貯水池もはっきり見て取れるものでした。

■<Q&A:伝単について>
◇(一覧表を示しながら)米軍では全ての空襲で何が使われたか、記録に残されている。「パンプキン」とあるのは模擬原爆。呉への空襲には、米軍が使った爆弾のうち原爆とパンプキン以外は全て使われている。伝単の記録もあり、これは「リーフレット心理作戦」と記載されているもの。
◇このうち、8/9に使用された記録があるのがAB-11リーフレット(ABはアトミックボムの略)。原作の伝単はそれより古いもの。
◇呉から江田島にかけては3機のB-29で伝単をまいたと記録にある。伝単に3機というのは多く、おそらく海軍兵学校向けだったと思われる(原作でも、伝単がまかれているシーンでは江田島方向に飛ぶ3機のB-29が描かれている)。
◇すずさんは伝単の前に呉から出ようとしていた。そこに「都市から退避せよ」〜町から出よ〜という伝単を読んだことで、(じゃあ逆に出るものか、と)意地になってしまった側面もあったかもしれない。

■<Q&A:リンさんの出番が少ないのですが>
◇察してください(笑)。

■<Q&A:建物の迷彩がおもに白黒で行なわれている意図は?>
◇白黒なのは、当時もう塗料が不足していたためで、白の塗料くらいしかなかった。黒はタールを使っていた。軍の消防車はカーキ色だった。
◇当時の国会議事堂の写真を見ても、白黒に塗り分けられている。白黒をまだらに塗った民家と違い、街中の建物は白黒のモザイク的に迷彩していた。当時の東京駅近郊でも例がある。
◇迷彩の意図としては、建物のシルエットが実際より小さく見える効果はあったと思われる。
◇先にも示した通り、下士官兵集会所も白黒で迷彩塗装されていた。
◇呉駅の迷彩は写真がなかった。
◇広島駅も迷彩されていたようだが、被爆後の写真ではもともとの迷彩なのか火災で燃えたのかわからない。タールを塗っていたところは燃えやすかったかもしれない。

■<Q&A:すずさんと晴美ちゃんが空襲後に歩き始めた方向が駅と逆では>
◇軍艦を見に行ったのであの方向に。
◇(空襲後の写真を示しながら)場所は宮原のあたり。写真ではちょうど塀がなくなっている箇所がある。
◇空襲の後、軍からは速やかに消防車の出動要請が出ており、宮原からも消防車が向かっていた。

※当日のメモを元に、なるべく確認しながら書いてみましたが、間違っていたなら教えてください。今のうちに。

【ネタバレあり】少女マンガとしての『この世界の片隅に』2017年03月14日 07時44分43秒

 古典的な少女マンガで好んで使われたシチュエーションとして、「あの時の男の子」というのがあると思う。ヒロインが幼い頃に出会っていた少年と、後に再会し、紆余曲折あって、最後は結ばれる、というものだが、りぼんの乙女チック路線の代表マンガ家の一人である太刀掛秀子の作品にもよく使われたし、より広く知られたものとしては『キャンディキャンディ』があるだろう。
 太刀掛秀子『花ぶらんこゆれて』と『キャンディキャンディ』の共通点としては、ヒロインの幼少期に出会った(泣いていたところを慰めてくれた)男の子と、ヒロインの側はその正体を知らないまま再会し、途中紆余曲折するものの、最後は、出会った時のシチュエーションを想起させるような形で二人が結ばれる、という基本構成があるだろう。
 時代が下ると、近藤喜文監督作品『耳をすませば』の原作者である柊あおいの代表作『星の瞳のシルエット』も、この「あの時の男の子」フォーマットを踏襲しているが、「出会ったところで泣いていたのが男の子の方だった」など、過去作品との差別化のため?のアレンジが随所にみられた。

 さて、そういった少女マンガの定番フォーマットを意識したものだったのかどうかは不明だが、『この世界の片隅に』では、すずさんが幼い頃、「冬の記憶」において周作と運命的な出会いをしている。ばけもんにさらわれそうになるが、からくも逃れる、というシチュエーションが今ひとつロマンチックではないが(笑)、ともあれ二人は出会った。
 その時の記憶だけを頼りにすずさんに縁談を申し込んだのは周作の方だが、よくよく考えてみると、この周作の思考回路はけっこう乙女チックかもしれない(笑)。他にも、リンとの関係や、りんどうの茶碗あたりからしても、なかなかに恋愛体質(笑)であることがうかがわれるではないか。リンとの結婚を反対された周作が「だったら、子供の頃、広島で会った女の子と結婚したい」なんて言い出すのも、よく考えるまでもなく無茶な話で、その思考回路もなんだか乙女っぽい(笑)。(その無理難題を冷静にクリアしてしまった円太郎父さんの調査能力恐るべし、である(笑))

 さて、普通の少女マンガの展開なら、後年偶然知り合った男性が「あの時の男の子」であることをヒロインの側はしばらくの間は気づかないまま、それでも恋愛感情が生まれ、深まっていくのだが、すずさんの場合は、単にぼーっとしている(笑)ので思い出せない。周作の方も、「どこかで先に会いましたか?」と聞かれながら、そこで明かしてもいいのに、ほくろの話しかしない。
 少女マンガ的には、「あの時」のことは男性の側は最初から、あるいはヒロインが気づくよりはずいぶん前から気づいているのが一般的で、ヒロインには言わないまま関係を深めるような努力をしていることもままある。このあたりは、フォーマットは異なるものの、先にタイトルを挙げた『耳をすませば』で聖司くんが図書カードに自分の名前を仕込んでいるという涙ぐましい努力とも多少通じるところはあるかもしれない。
 ここで、すずさんと周作の関係がいきなり結婚から始まるのは「あの時の男の子」フォーマットとしては変化球的だが、時代背景を考えれば、いきなり縁談から関係が始まる『はいからさんが通る』のようなもの、ということで、まあいいかな。現代でも、契約結婚してから「恋」を育むマンガもあることだし(笑)。

 因みに、すずさんの場合は、哲という、すずさんを意識しまくっていた幼なじみがいるあたりも設定的にはちょっと少女マンガ要素ではある。このあたりのすずさんと哲、リンと周作の関係などが、いろいろ生々しくて昼ドラっぽい感じもするあたりは、原作の媒体が青年誌なのでまあいいだろう。それでも、哲も含めて、恋愛に関してはピュアな想いをそれぞれに持っている感じはすると思う。
 「あの時の男の子」フォーマットの観点でも、ヒロインの恋愛模様は紆余曲折あって読者にもどかしい想いをさせるのは仕様(笑)であろう。

 そうしてラスト、ついに「あの時の男の子」であることが明かされ、想いを確かめあうシークエンスでは、「想い出の場所」「想い出のアイテム」「想い出の会話」など、「あの時」を想起させるものが提示される。『花ぶらんこゆれて』なら花ぶらんこの花、『キャンディキャンディ』なら当時のセリフ(民族衣装とバグパイプまでそろえたのはアニメ版だったようだ)、『星の瞳のシルエット』ならすすき野原と星のかけらなどがクライマックスを演出している。
 すずさんと周作の場合は、「相生橋」で「ばけもん」で「キャラメル」がキーアイテムといえるが、待ち合わせ場所に産業奨励館跡を選び、相生橋の上で「二人の出会い」を語るあたりは、周作の意志が感じられる。そこですずさんが「ありがとう。この世界の片隅に…」を語りかけるのは、紆余曲折あってたどりついた二人の関係を象徴している。そこに登場する「ばけもん」はいささか乙女チック感には欠けるが、すずさんが周作と間違えて「ばけもん」の手を握ってしまうというオチをつける原作に比べ、想いを確かめあう二人を祝福するかのように、「ばけもん」が後ろを通り過ぎ、背負いかごからワニが顔をみせるアニメ版の方が、演出的にはロマンチックで少女マンガ寄りのように思う。
 原作でもアニメ版でも、二人がそのばけもんについて何かをいうことはないが、すずさん視点では、周作が「あの時の男の子」であったことをここで確認したのは間違いないだろう。

 さて、アニメ版『この世界の片隅に』が原作と比べ、すずさんの少女性を強調している、という点は随所で語られているが、そのことによって、原作がもともと持っていた少女マンガ的な要素がよりクローズアップされたように思う。
 例えば、前述の「キャラメル」については、原作の「冬の記憶」ではすずさんが買ったキャラメルは作中に登場しないが、アニメ版では買ってきたキャラメルの箱のにおいをかぐという描写があり、後に周作が江波を訪ねて来た際には、誰かはわからないのにキャラメルのにおいをすずさんが思い出す、というあたりは、やはり少女マンガ要素を強調する効果があると言っていいだろう。
 また、アニメ版では江波を訪ねた円太郎と周作が「親切な水兵さん」と出会ったことになっている。ここで哲がわざと間違った道を教えたのでは、という疑惑がネットで語られることがあるが、そのことの真偽はさておき、すずさんをめぐる三角関係のライバルをあらかじめ対面させておくあたりも恋愛要素としては効いているだろう。
 そして何より、アニメ版では周作とリンの関係に関する描写がそっくり割愛されているため(もちろん、そのことを暗示するアイテムは随所に登場するのだが)、すずさんと周作の関係によりフォーカスが寄った作品となっている。呉の焼跡で周作を見送るシーンでも、原作では朝日遊郭跡を自分で確かめるよう促す周作のセリフが、アニメ版では、必ずすずさんのところに帰ってくる、という周作の意思表示になっている点も(絵コンテでは原作通りの台詞だったので、尺の関係による変更だろう)、同様の効果をもたらしているように思う。

 ということで、アニメ版よりは「青年マンガ」寄りの原作『この世界の片隅に』だが、こうの史代先生の絵柄はご本人が昔の少年マンガをよく読まれていたとのことで、なんとなく懐かしさを感じさせる。
 そう思っていたところに、先日、かつてりぼんで活躍された千明初美先生の作品集『ちひろのお城』が復刊された。当時のりぼんといえば、流麗なタッチの一条ゆかり、乙女チック御三家の陸奥A子、田渕由美子、太刀掛秀子などの絵柄が乱舞する中、ちょっと石森章太郎を思わせる少年マンガ的なキャラクターはちょっと異色ではあった。とはいえ、そういうキャラクターだからこそ、か、流れるようなきれいなペンタッチとも合わせ、今読んでも古びていないのは再読して驚きだった。昔の少年マンガの影響を受けた絵柄、という点では、こうの先生の画風とも多少親戚関係にあるように思う。
 千明初美作品のテーマは、恋愛より家庭内の家族間の葛藤や新任のクラスをまとめようと奮戦する教師など、日常に立脚した作品が多かったのだが、その日常は、当時の読者からみて「現代」もしくは「ちょっとだけ昔」、昭和30年代から40年代の、まだ田舎では井戸が使われていたり、やぶれた服にアップリケをあてて使うような描写が散見され、今読むと、『この世界の片隅に』の昭和20年前後の日常との地続き感が強く感じられる。
 せっかく復刊されたことでもあり、こうの作品のファンの方にちょっとオススメしたい少女マンガだと思う。

母の見た戦争2017年02月18日 15時34分57秒

 年末に、84歳の父と80歳の母を『この世界の片隅に』に連れて行ってみた。母の方は、映画が始まってからちょっとの間、うとうとしてるようだったので、ちゃんと観れているか心配だったのだが、観終えたら、「いい映画に連れてきてくれてありがとう」と、言ってもらえたので、ちょっと安心した。

 その後、映画公開後よく聞いた「老親に『この世界の片隅に』を見せたら昔のことを語り出した」という現象が当家においてもみられ、初めて聞くような話がいろいろと聞けたので、自分が忘れてしまう前に備忘録として記しておこうと思う。

 母は山形市内の生まれで、昭和11年生まれ、終戦時は小学3年生だったという。生家は山形駅から徒歩15〜20分くらいの距離だが、昭和40年代にも「ニッポンの普通の田舎」という感じで、自分の覚えている母の実家は土壁の昔風の家屋だった。わりと細長い土地で、道路に面した一角は別の家が建っており、奥に入っていくと家屋があり、裏手にちょっとした畑と、その一角に昔風のお便所があった(このお便所は子供心にもちょっとこわかった)。

 母から今回初めて聞いた話でまず驚いたのは、道路側の別のお宅の土地も含め、全体を昔は祖父が借りており、戦時中はそのお宅のあるあたりの土地に防空壕を掘っていた、ということであった(その後、土地を買う時に持ち主が分かれたとか)。
 「防空壕に入った」という話は子供の頃に聞かないではなかったが、具体的な場所やその後の経緯等は聞いたことがなかったので、ちょっと驚いた。
 祖父は漆職人で、当時の実家の2階には祖父の仕事部屋があったが、自分が物心ついた頃は仕事はしていなかった。たまに2階を見せてもらうと、仕事道具やあちこちにこびりついた漆があったのを覚えている。

 裏手の畑は、あまり使われていない感じで、その後建て替えられる際(自分が小学3年生の時だったと思う)にはそちらまで使った新しい大きな木造家屋になったのだったが、かつては映画の北條家のように野菜等を育てていたのだろう。北條家の段々畑と比べればずっと狭い畑で、祖父母と5人の兄弟姉妹には足りなかったのではなかろうか(因みに母は末っ子で、この5人の他にもあと何人か幼くして/若くして亡くなった兄弟はいたらしい)。当時、戦中から戦後にかけて子供たちも苦労したという話は、数年前に母方のお墓参りの後、伯母(母の亡兄の奥様)から昔の伯父たちの体験にまつわる話として少し耳にしたりした。
 母からこれまでにも、「戦時中はとにかく食べるものがなかった」とはよく聞いていたが、食に関する話でも、今回初めて聞いた話があった。戦時中のある時、祖母が「かて飯」を炊いておいたところ、盗難に遭ったとか。「かて飯」といっても、普通はお米以外の雑穀や大根飯、あるいは映画にあったようなサツマイモを混ぜたものが想起されると思うのだが、その盗まれた「かて飯」はお米にお茶がらを入れたもので、盗まれた後のお釜は、きれいにお米のご飯だけをとりわけて、お茶がらは残っていたということである。

 山形市内は幸い空襲には遭わずにすんだとのことだが、「神町の飛行場が空襲に遭ったときは家からもその炎で空が赤くなっているのが見えた」とのこと。資料によると、8月9日の出来事だったようだ。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000188488

http://mt1985.cocolog-nifty.com/naval_strike/2013/05/89-am-vf-9422-0.html

 リンク先に書かれていたように、山形市は「数少ない非戦災都市」ではあったようだが、学童疎開は行なわれていたようで、母も祖母の親戚の家から学校に通うことになったとか。親戚の方々にはかわいがってもらって、特にいやなことがあったわけではなかったのだが、なんでも、祖母と離れているのが淋しくて耐えられず、途中から実家に戻ってしまい、朝早くに疎開先のお宅まで歩いていってお弁当をもらい、そこから学校へ通い、帰りも同じようにして、実家まで帰る、という生活をちょっとの間していたらしい。これは今回初めて聞いた話の中でも特に驚いたエピソードだった。
 そんなことをしていたので、小学3年生の女の子にとってはあまりにも通学で歩く距離が長く、疲れがたまり、ほどなく熱を出して寝込んでしまったとか。それで寝込んでいるうちに玉音放送があって、終戦は疎開先ではなく実家で迎えた、ということである。
 実は自分も、子供の頃その母の実家に帰省するのが楽しくて、休みが終わって帰る時は淋しくなって「もっといたい」とか思いながらも、小学5年生の時だったと思うが、一人で実家に泊めてもらう、という生活をしてみたら、1週間ほどで淋しくなって母親に迎えにきてもらった、ということがあったので、やはり親子、変なところは似ているものだ、と、ちょっと思った。(余談だが、そんなこんなで、実は千明初美「いちじくの恋」は他人事と思えないのであった(笑))

 最後にもうひとつ、戦後の話もあった。
 母が通っていた小学校は、当時としては市内の小学校では珍しい鉄筋コンクリートのモダンな建物だったそうなのだが(その小学校の校庭には子供の頃遊びにいったが、そんなに昔の建物と思っていなかったので、校舎についてはあまり記憶がないのがちょっと残念)、それ故に米軍に接収されることになり、生徒はあちこちに分散して授業を受けることになったとのことである。
 いきなり「アメリカ軍が使うことになったから」と言われ、先生も生徒も総出であわてて机や椅子を運び出すことになったのをよく覚えている、とか。記録をさぐってみたら、米軍による接収は2年間だったようなので、母が卒業するまでには元の校舎には戻れたのだろう。

 なお、父からは特に当時の話等は出てこなかった。もともとそんなに多弁な人でないこともあるが、山形の郡部の、それなりに歴史のある農家の生まれだったので、あまり語りたくなるような戦争体験というのはないのかもしれない。
 「今はマンガの方がこういう話を簡単に作れるのか」というわかったようなわからないようなコメントをもらったので、「この監督さんはものすごい調査をして作ってるので、簡単なんてことはないよ」と答えてはおいたが、もしかすると、ボキャブラリーの少ない(アニメの作り方等も特に知らない)父のコメントとしては、これでも最大級の褒め言葉ではあったのかもしれない。

 あるいはもう何年かすれば、こんな昔話もすぐには出てこなくなるかもしれない、と思うと、昨年末に両親に『この世界の片隅に』を見せることができたのはよかった、と思う次第である。

北條家のユーカリのこと(『この世界の片隅に』)2017年01月28日 09時58分25秒

 職場に昔からユーカリの樹がある。
 もう30ン年経つ職場に、最初から植えられているので樹齢は40年以上あるかもしれない。けっこうな巨木になっていて、全体に太い幹の部分の樹皮がはがれて木肌がみえている(これはユーカリの特徴のひとつ)。
 いつもは何の気なしに通り過ぎていた。日常の風景の一部で、空気のようなものだった。

 『この世界の片隅に』の映画を観て、北條家の庭のユーカリの姿に、なんだか見覚えがあると思ったのだが、出勤してみて気がついた。高さも枝振りも、ほぼ双子のように似ている。

 さて、そうなってみると原作でも映画でもなにげなしに「蚊遣りに使うてください」といわれるこのユーカリが気になって、ちょっと調べてみた。
(葉の写真入りで紹介しているサイトを見つけたのでご参考まで。http://www.eucalyptus.jp/?a=252

 蚊遣りに効果がある、細長い葉のユーカリは通名「レモンユーカリ」(ユーカリシトリオドラ。学名:Corymbia citriodora)というようである。木の葉がレモンのような香りをすることから、これらの名前がついたということか。
 そして、虫除けに効いている成分はシトロネラールとのことで、このユーカリのレモンっぽい香りの成分そのものでもあるようだ。

 因みに、果実のレモンの香りの主成分はシトラールといい、カタカナにするとちょっと似ているが、これは厳密にはひとつの物質ではなく立体構造が異なるゲラニアールとネラールの混合物である。有機化学的に細かい話をするなら、シトロネラールはゲラニアールやネラールより分子内の二重結合が一つ少なく、シトラールとは別の物質である。とはいえ、構造が似通っているので、香りもちょっと近いニュアンスがある。
(ちょうど質問箱でこれらの構造がわかるのがあったのでご参考まで。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14143574774

 さて、ここでちょっと脱線すると、シトロネラールは山椒にも含まれている。山椒の辛みはサンショオールというまた別の成分によるものだが、山椒のちょっとさわやかな香りにはシトロネラールが寄与しているとされる。
 そう思って、職場のユーカリの葉を摘んできて、指でこすってみると、なるほど、レモンっぽくもあり、山椒っぽくもある。

 映画版では、北條家は築50年くらいという設定のようで、なるほど、桐製と思われる箪笥なども年経て飴色になっている。おそらく、ユーカリの樹齢も家と同程度で、うちの職場のユーカリとも同じくらいなんだろうな、とちょっと思ったのであった。

『この世界の片隅に』次に観る一本2017年01月18日 05時37分46秒

 最近、読書会イベントにたまに参加してみるようになったが、読書会の〆に「次に読む一冊」を語り合うことが多い。もともとはミステリ読書会の方で行われていたものだが、いかにもな作品から意外な作品まで挙がることがあり、読書会をきっかけとした読書ガイド、という(おそらく本来の)位置づけを超えて対象の本への議論がより深まる議論になったりすることもあって、これは面白いなあ、と思っていた。
 ということで、今回はアニメ『この世界の片隅に』の次に観る一本をいろいろな切り口で考えてみたい。あ、タイトル通りの「一本」に収まらないのはご勘弁下さい(笑)。

◼︎『小さいおうち』山田洋次監督作品 2014年
 言わずと知れた直木賞受賞作、中島京子『小さいおうち』の映画化。戦中の時代に家政婦として働いていたヒロインがノートに書き綴った当時の記憶、というコンセプトは共通しており、ヒロインの親戚にあたる現代の大学生が持っている「悲惨だった戦中の時代」という固定観念とは裏腹の、当時の東京中流家庭の普通の日常が描かれる、という作品コンセプトに『この世界の片隅に』との共通点を感じる。
 原作ではヒロインが料理研究家として名を成していて編集者からのオファーで自伝的な覚書を書き始める、という設定があったり、百合的な要素がけっこう色濃かったり、いろいろあるんだけど(原作の手記部分の長さやボリュームが「元家政婦の老婦人」が書くには内容がしっかりしすぎてるので、そこに説得力をもたせるための設定かもしれない)、映画版はシンプルに「一家政婦が見た奥様の秘密の恋」に内容を絞っていて、戦中の市井の人々の日常にフォーカスした本作の映像化としては正解という印象。

◼︎『紙屋悦子の青春』黒木和雄監督作品 2006年
 特攻で出撃することが決まった青年がほのかに想い合っていた女性のもとを訪れる、というシチュエーションから連想されるのは、普通は戦争の悲惨さと悲恋のロマンス、泣ける反戦映画、などではないかと思われるが、それをきれいに裏切ってくれる秀作。
 ここで描かれるのは、戦時下で物も足りないながら、笑いの絶えない普通の人々の日常であり、その一員であったはずの一人があっさり姿を消すことで、逆説的に戦争の理不尽さを実感させる。
 余談としては、ヒロインの原田知世がラストで老婦人になって登場するのだが、どんなに老けメイクをしても原田知世は年齢不詳なのであった。

◼︎『ペコロスの母に会いに行く』森崎東監督作品 2013年
 認知症の母親の介護生活を綴ったエッセイコミックの映画化。舞台が長崎であり、認知症が進んで若い頃の思い出をもう一つの現実として生きる老婦人を通して、姉妹のように育った幼馴染を襲った原爆とその後の運命が浮かび上がる。これもまた、介護や戦争と言ったテーマを日常という切り口でコミカルに描いた秀作。
 老境のヒロインを赤木春恵、若い頃のヒロインを原田貴和子が演じ、姉妹のように育った幼馴染を実の妹である原田知世が演じる。この二人の関係が、『この世界の片隅に』におけるすずさんとすみちゃんのようでもあり、さらには…。

◼︎『となりのトトロ』宮崎駿監督作品 1988年
◼︎『火垂るの墓』高畑勲監督作品 1988年
 片渕監督と関係浅からぬ両監督の、今さら紹介するまでもない代表作。
舞台となった時代の点でも、内容の点でも、『となりのトトロ』と片渕監督の前作『マイマイ新子と千年の魔法』、『火垂るの墓』と『この世界の片隅に』を対応させることは容易にできるが、『この世界の片隅に』はすずさんの描く「ばけもん」に象徴される民俗的、幻想的要素で『となりのトトロ』の要素をも併せ持っているとも解釈できる。
 両作は同時上映であったが、どちらを先に観るかで映画館を出る時の観客の顔が対照的であったとはよく言われることであるが、『この世界の片隅に』を観た観客にはその心配は不要であろう。

◼︎『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』ラッセ・ハルストレム監督作品 1985年
 母親の入院で田舎に預けられた少年イングマルは心細さを感じると「宇宙で死んでしまったあのライカ犬よりはマシだ」と自分を慰めるのだが…。日本では1989年に公開され、当時から広告ポスターなどで『トトロ』と並び称されることもあったスウェーデン映画の秀作。舞台となった時代や子供の日常を描く暖かい視線には確かに共通点を感じた。
(両作の関係性について論じてみたことがあるのでご興味ある向きはご参照ください。→http://www.asahi-net.or.jp/~ug5k-tki/cyberit/others/mylife.html
 片渕監督もかつてtwitterで本作のファンであることをつぶやかれていたことがあったが、前作の『マイマイ新子と千年の魔法』においては母がなく父娘で見知らぬ土地に越してきた貴以子と新子の関係は、原作小説通りではあるものの、イングマルとサガの関係を連想させるところがある。
(こちらについても過去に比較してみたことがある。→http://www.asahi-net.or.jp/~ug5k-tki/cyberit/ps/ps45.html
 さらにいえば、見知らぬ土地に嫁入りしてきたすずさんが内心感じていたであろう孤独感という点では、『この世界の片隅に』にも『マイライフ~』的な要素はあるように思う。イングマルにとっての「犬」とすずさんにとっての「絵を描くこと」も呼応しているといっていいかもしれない。

◼︎『ミツバチのささやき』ビクトル・エリセ監督作品 1973年
 寡作で知られるスペインの映画監督ビクトル・エリセの初長編作品。内戦の傷痕の残るスペインの田舎町で映画『フランケンシュタイン』を観た少女アナが、姉のイサベルの嘘~あの怪物は精霊で呼べば現れる~を信じたことをきっかけに体験する現実と幻想、子供の世界と大人の世界の交錯を描く。
 この作品を挙げることを意外に思われる方もおられるかもしれないが、実はBGM集を聴いていて強く連想したのが『ミツバチのささやき』。そう思ってから改めて映画を観ると、劇伴の曲の雰囲気や映画の中での使い方に共通項があるように思われてきた。
 片渕監督がこの映画のファンであり、前作の『マイマイ新子と千年の魔法』には『ミツバチのささやき』リスペクトな蒸気機関車のシーンがあること、片渕監督が音響監督も兼務していることなどを踏まえるなら、あながち外れていないように思うのだが、どうだろうか。
 もう一点、映画全体を通して観た時、その構造が緊密に組み上がっており、不要なシーンがなく、画面に映っている物の一つ一つに何らかの意味が見出せる、という映画の質感の点でも、共通点があるように思う。
 また、『ミツバチのささやき』は少女アナの通過儀礼を描いた作品であると論じられることが多いと思うが、映画『この世界の片隅に』は、原作よりすずさんの「少女性」を強調することで(原作者のこうの先生はすずさんを年齢なりの「大人の女性」として描いたとのことで、パンフレットなどで、この相違についてコメントされている)、すずさんが大人になる過程を描く通過儀礼テーマを内包する作品として再構成されている。片渕監督の劇場作品『アリーテ姫』『マイマイ新子と千年の魔法』も通過儀礼テーマであることを考えるなら、概ね原作マンガを忠実にアニメ化していながらも、この部分には片渕監督の共通のテーマ性が表現されていると思われる。

◼︎『エル・スール』ビクトル・エリセ監督作品 1983年
 10年に一度しか作品を発表しないといわれていたエリセ監督の第二作。幼い頃からお父さんっ子だったヒロイン、エストレリヤはある日、父親の過去の秘密を知ってしまうのだが…。こちらもまたスペイン内戦の影響が色濃く、やはり通過儀礼テーマの作品でもある。
 本作は、本来は父親の過去を訪ねる南(エル・スール)への旅にヒロインが出発するところで映画が終わるが、実際には旅した南での部分まで撮影はされていたとのこと。ヒロインが旅立つシーンで映画が終わるのは、初見ではやや唐突感はあるものの、南での旅の描写がなくとも緊密な構造でテーマを表現し切った作品になっているあたりはさすがのエリセ監督の職人芸といえよう。
 『この世界の片隅に』においても、原作の膨大なエピソード、情報量を120分では表現し切らず、原作では重要なあるエピソード群を潔いほどばっさりカットしてある。このことが、前述した「すずさんの少女性」を強調する効果ももたらしているため、ファンの中でも、このエピソード込みの完全版?を期待しつつ(実際、30分追加版の制作を視野に入れつつあるとのプロデューサーの意思表示が既に出ている)、とはいえ、現在公開版の緊密な構造やテーマ性が変わってしまうのではないかと危惧する意見も一部あるようである。
 しかし、エリセ作品との共通項、という観点で考えてみた場合、追加されるのは「すずさんが夫の秘密に気づく」ことを軸とするエピソード群であり、これは『エル・スール』におけるヒロインの通過儀礼と近いと言えるように思う。上述した片渕監督の作家性も考えるなら、現行版のテーマ性も継承しつつ、150分版を再構成してもらえるものと期待したい。

2016年12月に読んだ本2017年01月08日 07時50分00秒

 blog読んでいただいている方には一目瞭然ですが、『この世界の片隅に』の物語解析にハマってしまい、読書数は少なめ。とはいえ、12月は生まれて初めてのtwitter古本オフ会@神保町 などもできて楽しかったですね。

■麻生 みこと『小路花唄』1巻 (アフタヌーンKC) 講談社
読了(2016-12-17) ☆☆☆☆

 麻生みことのこれまでのところ最高傑作と信じて疑わない『路地恋花』シリーズ(全4巻)のスピンアウト作品がスタート。「路地」から職人商売を始めて独立する店主の多い中古参となってしまった靴職人のヒロインをメインに、本シリーズと同様にオムニバス形式でゆったりと語られる物語がなんともいとおしい。

■森 薫『乙嫁語り』 9巻 (ビームコミックス) KADOKAWA
読了(2016-12-18) ☆☆☆☆

 お互いに不器用な二人がさまざまなハプニングを経て愛を深めていく展開が、個々の「事件」はちっとも色っぽくはないにも関わらず、なかなか胸キュン。森薫ノリノリだなあ。
 それにしても、未だに前巻比で絵の緻密さが増してきている。番外編的な4コマの中の絵までちまちまと緻密に描きこまれていて、森薫のフェティッシュ作画が止まらない。この人はどこまで行くんだ(笑)。

■福田 和代『碧空のカノン: 航空自衛隊航空中央音楽隊ノート』 (光文社文庫)」 光文社
読了(2016-12-18) ☆☆☆☆

 他の作品はほとんど未読ながら(「本の旅人」の連載を部分的に読んだ程度)、硬派なスパイものとか、そういうイメージで定評のある著者の、まさかの自衛隊ラブコメ。といっても、有川浩の自衛隊ラブコメとは異なり、舞台は航空自衛隊中央音楽隊。これがまた、有川浩に匹敵するラブコメぶりでにまにま(笑)。とはいえ、ストーリーは北村薫ばりの「日常の謎」ミステリとして練り込まれており、いずれもちょっとじんわりする仕掛けもある。秀作。
 ところで、別作品の取材の際に航空自衛隊のリアル「空飛ぶ広報室」の方から「実は音楽隊というのがあるんですが…」と紹介されたのが本作のきっかけだったとか。取材時期からすると、この広報室の中の人、もしかして有川浩の相手したのと同じ人だったりするのだろうか。だとしたら大変なやり手!?

■『この世界の片隅に』製作委員会『この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック』 双葉社
読了(2016-12-28) ☆☆☆☆

 突貫で出版されたためか若干の誤字はあるものの、前半部と後半部に分けたフィルムストーリーとスタッフ、キャスト、原作者等々への充実のインタビュー、その他設定情報、諸々の資料から背景美術や服飾設定などのビジュアル面まで、このコンパクトな本の中にこれでもかと詰め込まれている。ロマンアルバム的なムックはこれまでにも種々買っているが、「情報量」という点ではここまで詰め込まれたものはなかなかない。映画を観て気になるところがある方は、原作とこれを座右に置くべし。

■バリントン・J・ベイリー『時間衝突【新訳版】』 (創元SF文庫) 東京創元社
読了(2016-12-30) ☆☆☆☆★

 内容をほぼ忘れ切っていたので、この作品の驚きを初読と同じく味わえたのは年寄り故の僥倖か(笑)。なるほどこれは、ベイリーがたびたび扱った「時間」テーマの中でも破天荒さ、スケール感、小技的なアイデアの豊富さ、ストーリーのスピード感など、まさにワイドスクリーンバロック。「服飾」というアイデアがやや変化球的だった『カエアンの聖衣』と比べるとSFとしてど真ん中豪速球! これこそまさにベイリー最高傑作といっていいのではないか。
 そして、この時間理論とプリースト『夢幻諸島から』の世界観の共通点に気がつけたのは個人的収穫。いずれも、「世界」にはもともと「時間」はないか、止まっているんだけど、人間の「意識」が「時間」生み出しているのではないか、という点では実はかなり近い世界観かもしれない。ベイリーの場合は「世界」を伝播する「波」の上に知的生命が発生して「時間」を観測しているが、プリーストの場合は世界を「観測」するのが個々の人間である、ということではないか、とか、ちょっと考えたりした。

【ネタバレあり】右手が語る/騙る物語(『この世界の片隅に』)2016年12月30日 20時26分19秒

 前回まで、『この世界の片隅に』原作が持つ幻想/民俗的要素に対してSF/幻想文学の文法による構造解析を試みてきた。
 以下はこれまでの考察の基盤ともした考え方でもあるが、原作に関しては、マンガとしての様々な実験手法そのものが、「すずさんの右手」で描かれた(実際に描かれていなくとも、描くことができる/意識の上では描いていたかもしれない)ものとして捉えることができると思われる。

◼︎右手が手にした画材
 特に、物語の冒頭と末尾の「年月」以外のサブタイトルの付された短編間では、描かれる対象がリンクしており、また、特に失われた右手が用いる画材もまた、描かれる対象とリンクしている。

「冬の記憶」ー「人待ちの街」
 ー短い鉛筆で「鬼イチャン」→ばけもんが描かれる。
「大潮の頃」ー「りんどうの秘密」
 ー口紅で座敷童→リンが描かれる。
「波のうさぎ」ー「水鳥の青葉」
 ー羽根ペンでさぎ、青葉、波のうさぎが描かれる。

 こうしてみると、「鬼イチャン」は、子供の頃に楽描きしすぎてちびた鉛筆で、リンは二葉館を訪ねた際にもらった口紅で、さぎは哲にもらった羽根のペンで描かれているのがわかる。
 なお、末尾側にはさらにふたつの短編がある。

「晴れそめの径」
 ー地面に石で径子、北條親子、晴美等が描かれる。
「しあはせの手紙」
 ー長い鉛筆でヨーコ母娘が描かれる。

 ここで、晴美に関わる来歴が地面に石で描かれているのは、すずさんが防空壕で描いた似顔絵に対応しているものと思われる。一方、対応するものがないヨーコ母娘は普通の鉛筆で描かれている。

◼︎水彩画と羽根ペン
 これらのエピソード群の中でも、水原哲と青葉をめぐる2篇は基本的には客観視線で描かれたエピソードであり、「右手」の介在は控えめで、「波のうさぎ」ではすずさんの水彩画が哲の去るシーンと同化している点と、着底した青葉を見る哲を見たすずさんが、波のうさぎやさぎを思い描いている程度にとどまる。
 これは、前回までの解釈に沿うなら、すずさんの意識が未だ左手の描く歪んだ世界にありながらも、右手の世界の感覚を取り戻しつつあるとも解釈でき、すずさんの精神状態が解離状態から回復するきっかけをつかみつつある、と考えることもできるだろう。
一方で、これらのエピソードには明確な幻想性もなく、「右手」による「語り」=すずさんの現実に対する干渉も特に考えなくてよいと思われる。

◼︎もうひとつの径?
 特に対応するエピソードのない「晴れそめの径」は「右手」が石で地面に描いているものとして、駐留軍のジープ、右手を失った姿のすずさんや、(息子の消息を知らせる)手紙を読む刈谷さんなど、すずさんにとっての普通の現実=「左手の世界」の出来事が描かれているように見受けられる。そこで並列に、北條家の過去、径子と晴美のこれまでなど、これもまたすずさんをとりまく現実に属する事柄が描かれている。普通に考えれば、このエピソードに対して、これまで行なってきたような考察を無理に試みる必要はないかもしれない。
 しかし、ここで敢えて、このエピソードもまた「右手」によって描かれていることから、「右手」が、あり得る可能性を付随する過去まで含めて「観測」しているとするとどうだろう。
 そう考えた場合、ここで「右手」は北條家の人たちの様々な可能性の中から、現実に即した、すずさんの嫁ぎ先としての北條家の人々を「観測」し、描き出したのかもしれない。
 仮にここで「右手」が径子や晴美に関わる現実干渉〜径子が別の相手と結ばれ実家を頻繁には訪ねない、晴美が生まれていない、など〜を行なった場合、すずさんの右手が失われることもなく、(これまでに考察してきたような)「語り手」としての「右手」の力は発揮されないため、これらのこれまでに起こった通りの現実を描かざるを得なかったのかもしれない。
 とはいえ、一連の解釈を援用すると、仮に「右手」の采配がなかったとすれば、すずさんは北條家に来ず、その世界においては晴美を連れて空襲に遭っていたのは径子であったかもしれない、という点は指摘しておいてもよいかもしれない。

◼︎右手が語る/騙る物語
 「りんどうの秘密」においては、「左手の世界」ですずさんが遊郭跡地を訪ねるまでが描かれる一方で、「右手」はりんどう=リンの来歴にまつわる物語を紅で描き、ラストでは紅で描かれたリンとすずさんが重ね合わされるという趣向である。タイトルの「秘密」は、周作とリンの関係をすずさんが気づいているという「秘密」であるとともに、リンの正体という意味での「秘密」でもある。
 ここで、右手が紅で「描く/語る」物語によるならば、すずさんが草津の祖母の家で出会った座敷童が、呉にまで行き着き、博覧会場で拾われて遊郭の下働きから遊女になり、周作と出会ったことになっている。普通に読めば、読者は「大潮の頃」との物語の秘密のつながりが明かされたことで、すずさんとリンの不思議な縁に感慨を覚えるだろう。
 ところが、作者のこうの先生はここに一つのトリックを使っている。「大潮の頃」はすいかが物語のキーアイテムであり、10年8月の出来事ということになっているのだが、実は呉市主催の博覧会は10年3月頃に開催されており、そこで遊郭に拾われたリンが8月に草津にいるはずがないのである。
 このことは、呉市のホームページなどの年表でもすぐわかるが、こうの先生自らも、実は「晴れそめの径」の中に「博覧会は10年春」であることを作者注釈として小さく書き込んでいる。上記の時系列の矛盾は、原作マンガだけを読んでいる人でも、気づける仕掛けになっているのだ。
 「りんどうの秘密」が「わかった」と思っていた読者からすると、大いに混乱する仕掛けであるが、これはどういう解釈をすべきだろうか?
 比較的素直な解釈をするなら、『この世界の片隅に』原作全体が、すずさんの右手が描く/語る「物語」であり、もともと虚実入り混じっているため、その虚構性を気づく人には気づかせるという意味合いはあるだろう。ただ、それだけであるなら、わざわざ時系列が特定できる博覧会を選んで意図的な矛盾を描く必要はないように思われる。
 時系列の矛盾を素直に解釈するなら、座敷童の少女と、リンは実は別人であり、そこにつながりを持たせた「りんどうの秘密」の物語は、右手の(優しい?)嘘なのかもしれない。
 あるいは、座敷童の少女とリンは全くの別人ではなく一人の「白木リン」という少女の可能性であり、前回の考察のように、様々な可能性を「観測」できるようになった「右手」は、リンのふたつの可能性を、すずさんが呉で出会ったリンの現実として「観測」し、物語として定着させたのかもしれない。
 SF/幻想文学の文脈では、こういった読者を混乱させる仕掛けを「語り/騙り」と呼ぶが、上記の解釈を採るなら、すずさんの失われた右手は、まさに「信頼できない語り手/騙り手」といえるだろう。

◼︎終わりに
 3回に渡って、『この世界の片隅に』原作が持つ多層的な構造について、SF/幻想文学の観点で読み解く試みを行なってみた。
 勢いで書いた部分も多々あり、また、もとより、こうの先生ご本人が意図していないであろう解釈もあると思うが、私論/試論ということでご寛恕願いたい。
 本論では、あくまでも原作ベースでの考察を試みたが、アニメ版は原作に描かれていたことは割愛されていても同じことが起こっていることを示唆するヒントが随所に盛り込まれ、また、原作の実験手法も、可能な限りアニメで可能な近い手法/アニメだからこそ表現できる手法に翻訳されている。そう考えるなら、「すずさんがそこにいる」リアリティを感じさせるアニメ版においても、同じ物語構造は内包されていると考えてよいと思っている。(実際、blogやtwitterでいただいたコメントではアニメ初見でその幻想性を感じられた方はおられるようである)
 とはいえ、思考実験的な入り組んだ考察は今回でひと段落としておきたい。