【ネタバレあり】右手が描く物語(『この世界の片隅に』)2016年11月27日 10時32分26秒

 原作『この世界の片隅に』を読んだ後、妻から「結局、あのばけもんってなんだったの?」という素朴な質問を投げかけられた。自分も結論めいたものは持っていなかったので、その場はそのままになってしまったが、映画鑑賞後に目にしたあるツイートをきっかけに、少し考察が自分の中で深まった感じがするので、頭の整理も兼ねて文章にしてみたい。
 なお、本論考は主に『この世界の片隅に』原作に関する解釈であることから、基本的に原作、映画の双方についてネタバレ前提なのでその点はご注意いただきたい。

◼︎「ばけもん」がしたこと。
 物語中、「ばけもん」が姿を表すのは以下の2ヶ所だけである。

1:冬の記憶
・周作少年をさらって背負ったカゴに入れていた。
・幼いすずさんに声をかけ、同じくカゴに入れる。
・すずさんの(子供らしい)機転で、相生橋の上で眠らされる。

2:人待ちの街
・相生橋の上で周作とすずさんと再会?する。

 特に、物語終盤、映画予告編のキーフレーズでもあり、作品タイトルの含意そのものでもあるすずさんの台詞「ありがとう。この世界の片隅に、うちを見つけてくれて」の後に登場するのがいかにも思わせぶりなのだが、よく考えるまでもなく、呉に住む周作少年と江波に住むすずさんの接点はこの一件の他になく、周作が「この世界の片隅に」すずさんを見つけることができ、わざわざ名前だけを頼りにすずさんを探して求婚したということも、この事件が、少なくともこの二人にとっては「現実にあったこと」だったことを示しているだろう。

 映画『この世界の片隅に』公式アートブック、公式ガイドブック等での片渕監督の談話としては、過去にあった二人の実際の出会いが、すずさんの中ではそのような物語になっていたのだろう、との解釈を示している。
 映画では、原作にはあったすずさんのモノローグ「でも海苔が一枚足りなくて翌日父が大慌てでおわびに行ったのも確かなのだ」がなくなっており、また、原作とは異なる演出として、序盤の「冬の記憶」が半ばすずさんが絵を描きながら妹のすみちゃんに語る物語として演出されることで、映画においてはその物語の架空性がより強調されているとも解釈できる。

 物語中、すずさんは周作があの時の少年であることには気がついておらず、周作の口からも具体的な出会いが語られることはない。
 少女マンガ的観点からすると典型的な「あの時の男の子」なのだが、ヒロイン側がそのことを忘れ切っているのはいかにも「ぼーっとした」すずさんらしい(笑)。
 一方、周作の方は4つ年上でもあり、記憶もしっかりあったのだろうが、記憶にあるあの事件をどの程度現実のことだと思っていたのだろうか。名前を頼りにすずさんを探した訳だが、見つからなかったら「やっぱり夢のようなものだったのかも」と思ったりしたかもしれない。

◼︎「ばけもん」の正体は?
 物語の序盤では、この「ばけもん」、座敷童、と、空想上の存在が登場する。
 このうち、座敷童の正体が、すずさんが後に呉の遊郭で出会うリンであることは、読者/観客にはわかるようになっている。(特に映画版では、よりわかりやすく演出されていると思う)
 座敷童が実在の少女リンであったのであれば、バケモノの方も、何らかの実在があるはずではないのか。ないのであれば、(上述の通り)そもそも二人が出会い、結婚することもなかったはずなのだから。
 しかし、物語の終盤においては、この「ばけもん」は「すずさんの失われた右手」が描いた、「南方の島で暴れまくり、ついにはワニと結婚!してしまったすずさんの鬼イチャン」が現実に姿を現したかのような描かれ方をしている。もともと空想の存在が、さらに空想の産物と紐付けられているのだ。

 この点の描き方は原作と映画で異なる。原作では相生橋の上で、すずさんは周作と間違えて「ばけもん」の毛むくじゃらの手に触れてしまう、すなわち、手で触われる実体があるのだが、映画では、「ばけもん」は二人の後ろを通り過ぎるだけであり、さらに、背負ったカゴの中からワニの奥さんが顔を覗かせたりしており、実体があるのかどうか疑わしい描かれ方となっている。これは、先に指摘した「冬の記憶」の映画版演出と方向性は同じで、より「ばけもん」の架空性を強調していると考えることができるだろう。

 さて、「ばけもん」の実体の有無はいったん措くこととして、もし仮に、この「ばけもん」が同じ存在であるとするなら、すずさんの兄がまだ子供であった、南方に出征する以前の「冬の記憶」の時期に存在するはずはない。
 「ばけもん」の架空性を強調した映画版の解釈をとるなら、この「ばけもん」はすずさんの心の中の空想が生み出したものであり、すずさんがすみちゃんに語る絵物語の中の一種のスターキャラクターのようなものと考えることもできるだろう。そのような解釈なら、上記のような矛盾は考えるだけ野暮だろう。
 一方で、海苔は実際に一枚減っており、「ばけもん」の手に触れることもできた原作からはどういう解釈が成り立つだろうか。

◼︎右手が描く物語
 原作においては、すずさんの右手は物語中、時折、神の視点を持ったり、現実に干渉したりしているように見受けられる。それらは、こうの史代先生の実験的マンガ手法として語られることは多いが、なぜその手法で描かれているのか、から、物語の中での解釈を行なうことも出来るのではないか。

 もっとも顕著なのは、右手のモノローグとして語られる最終回で、ここでは、右手がすずさんと孤児を引き合わせたかのような描かれ方をしている。
 リンの来歴が明らかとなる「りんどうの秘密」においても、リンの生い立ちは「右手が口紅で描いた物語」という形で提示される。リン本人が自らの生い立ちをすずさんに語ったとは思われないので、ここでも右手はすずさんの知り得ないことを知っている、一種の神の視点から物語を語っている。

 さて、この論考のきっかけとなったある方のツイートは、要約するなら概ね以下のようなものであった。

・すずさんは「信頼できない語り手」であり、この物語が物語中の事実を反映しているとは限らない。
・この物語は右手を失った母親の死ぬ間際の夢のようなものかもしれない。

 映画は「すずさんが本当にいたように感じさせる」ことに主眼を置いており、すでに述べてきたような、「ばけもん」の架空性の強調はその方針からなされているものと思われるが、確かに、原作ベースで考えるなら、上記の解釈もあながち否定できないように思う。

 さらにいうなら、原作においては、物語全体の語り手がすずさんの右手と解釈してもよいような構造になっている。「物語の語り手」であるなら、一種の神の視点を持っていることも容易に首肯できるだろう。
 その解釈を採るなら、「右手が描く物語」はすずさんにとっての現実に干渉しうる、ということにならないだろうか。実際、原作の最終回は右手がモノローグを語りながら、広島の母娘を描き出し、すずさんと引き会わせる、という趣向となっている。

 この「失われた後に右手が描いたもの」(すずさん本人は知り得ないこと)は、「右手が描くことによって初めて物語中に出現した」と考えることはできないだろうか。そう考えるなら、原作の終盤で右手が描き出しているのはすずさんが引きとる孤児だけでなく、マンガ「鬼イチャン」では「ばけもん」、さらには「りんどうの秘密」におけるリンも該当していることに気がつかされる。
 シュレディンガーの猫の解釈で、こんな話を聞いたことがある。蓋を開けるまでは生きているか死んでいるかが確定していない猫が、死んでいたとした場合、それはいつ死んだことになるのか? 死体を調べて死亡推定時刻がわかるなら、その時にはもう死んでいたことになるんじゃないのか? いや、そうではなく、蓋を開けて猫が死んでいることが「観測」された時に、死亡推定時刻も含めてその猫の死が「確定」するのだ、という考え方である。
 原作終盤で右手が行なっているのはそれに近いことではなかろうか。すなわち、「ばけもん」や「リン」や「孤児」を、その背景設定込みで物語の中に現出させている、と考えるなら、先に指摘したような時系列の矛盾は考えなくてよいことになるだろう。

 そう思って、原作の目次を見返してみると、終盤で右手が語り始める「りんどうの秘密」から最終回までは、回ごとの副題が(それまでの年・月ではなく)あることに改めて気付かされる。
 原作の冒頭の目次に立ち返れば、「ばけもん」「リン」の登場するエピソードを含め、副題がある。もちろん、連載に先立って発表された短編だから、という現実的な理由もあるものの、単に年月で示されるエピソード群が、独立した副題のあるエピソード群で挟まれているという物語の全体構造は意味深である。

 さて、この解釈を採るとした場合、右手がしたことはすずさんにとっての「出会い」という共通項があることにも気づく。「ばけもん」は周作がすずさんをみつけるきっかけを作り、「リン」は一人で呉に嫁入りしたすずさんの友人となり、「孤児」はすずさんの娘となる。右手は、失われた後に、「語り手」としての力を使い、すずさんに伴侶と友人と娘を与えてくれたのかもしれない。

 そこまで考えてしまうと、右手はいつ失われたのか、も隠されたポイントと解釈できるかもしれない。すずさんが呉に嫁入りすることさえも、失われた後の右手の采配と考えることができるので、先に紹介したつぶやきで指摘されていた通り、右手が失われたのは、実は広島での出来事なのかもしれない。
 広島に嫁入りし、夫を失い、自らも死んでいくしかなかった「もう一人のすずさん」の右手が、呉に嫁入りし、夫も失わない「もう一人の自分」の物語を描き出した。しかし、語り直された物語の中でも、呉での生活には激しい空襲が繰り返されるし、右手が「語り手」として物語を再構築する力が「失われた」がために発揮されているのだとすると、「語り手」である右手は呉での物語の中でも最終的には失われなくてはならない。むしろ、失われることによって、広島での物語を語ることができ、最後の娘とのめぐりあわせが完結する。
 …一種のループ構造だろうか。ちょっとこわい考えになってしまったかもしれない。

 これは、あまりそこまでは考察したくなかった類いの悲しい解釈とも言えるのだが、この考察では、すずさんが呉では恵まれなかった、別の時間軸?での娘と時空を超えて(!?)めぐり会うことができた、と考えることも出来るのが救いになるようには思う。

■最後に
 こういったメタ解釈は、SFファン、幻想文学ファンの習い性のようなものともいえるが、ちょっと前までこのblogで続けていたプリースト『双生児』解析でいろいろと考察していた癖がまだつづいているかもしれない。
 逆に言えば、原作『この世界の片隅に』がどれほど多層的な要素を持っているか、ということでもある。当時の風俗、生活、史実を徹底的に調べ尽くした生活マンガでもあり、妖怪的な存在が共存する民俗的な側面も持ち、唐沢なをきとタメを張れる実験マンガでもあり、今回考察したような幻想文学、SF的な考察の余地まである。一コマ一コマに何らかの仕掛け、仕込みがあり、何度読んでも新しい発見がある。あらためて、恐るべき作品であることを実感している。これからも、折に触れては読み返すことになりそうである。

 一方で、片渕監督はおそらく原作のもつある種のメタ構造にはもともと気付かれており、既に述べてきた通り、映画版における物語構造からは、そう言った要素を極力排除していると思う。物語終盤、絵コンテ段階ではあった「右手」の語りかけが、完成した映画ではなくなっている点からも共通の意図を読み取ることができるだろう。
 映画版については、まさにそこにいるかのように身近なすずさんの存在感をあますところなく味わうことにしたい。