『この世界の片隅に』次に観る一本2017年01月18日 05時37分46秒

 最近、読書会イベントにたまに参加してみるようになったが、読書会の〆に「次に読む一冊」を語り合うことが多い。もともとはミステリ読書会の方で行われていたものだが、いかにもな作品から意外な作品まで挙がることがあり、読書会をきっかけとした読書ガイド、という(おそらく本来の)位置づけを超えて対象の本への議論がより深まる議論になったりすることもあって、これは面白いなあ、と思っていた。
 ということで、今回はアニメ『この世界の片隅に』の次に観る一本をいろいろな切り口で考えてみたい。あ、タイトル通りの「一本」に収まらないのはご勘弁下さい(笑)。

◼︎『小さいおうち』山田洋次監督作品 2014年
 言わずと知れた直木賞受賞作、中島京子『小さいおうち』の映画化。戦中の時代に家政婦として働いていたヒロインがノートに書き綴った当時の記憶、というコンセプトは共通しており、ヒロインの親戚にあたる現代の大学生が持っている「悲惨だった戦中の時代」という固定観念とは裏腹の、当時の東京中流家庭の普通の日常が描かれる、という作品コンセプトに『この世界の片隅に』との共通点を感じる。
 原作ではヒロインが料理研究家として名を成していて編集者からのオファーで自伝的な覚書を書き始める、という設定があったり、百合的な要素がけっこう色濃かったり、いろいろあるんだけど(原作の手記部分の長さやボリュームが「元家政婦の老婦人」が書くには内容がしっかりしすぎてるので、そこに説得力をもたせるための設定かもしれない)、映画版はシンプルに「一家政婦が見た奥様の秘密の恋」に内容を絞っていて、戦中の市井の人々の日常にフォーカスした本作の映像化としては正解という印象。

◼︎『紙屋悦子の青春』黒木和雄監督作品 2006年
 特攻で出撃することが決まった青年がほのかに想い合っていた女性のもとを訪れる、というシチュエーションから連想されるのは、普通は戦争の悲惨さと悲恋のロマンス、泣ける反戦映画、などではないかと思われるが、それをきれいに裏切ってくれる秀作。
 ここで描かれるのは、戦時下で物も足りないながら、笑いの絶えない普通の人々の日常であり、その一員であったはずの一人があっさり姿を消すことで、逆説的に戦争の理不尽さを実感させる。
 余談としては、ヒロインの原田知世がラストで老婦人になって登場するのだが、どんなに老けメイクをしても原田知世は年齢不詳なのであった。

◼︎『ペコロスの母に会いに行く』森崎東監督作品 2013年
 認知症の母親の介護生活を綴ったエッセイコミックの映画化。舞台が長崎であり、認知症が進んで若い頃の思い出をもう一つの現実として生きる老婦人を通して、姉妹のように育った幼馴染を襲った原爆とその後の運命が浮かび上がる。これもまた、介護や戦争と言ったテーマを日常という切り口でコミカルに描いた秀作。
 老境のヒロインを赤木春恵、若い頃のヒロインを原田貴和子が演じ、姉妹のように育った幼馴染を実の妹である原田知世が演じる。この二人の関係が、『この世界の片隅に』におけるすずさんとすみちゃんのようでもあり、さらには…。

◼︎『となりのトトロ』宮崎駿監督作品 1988年
◼︎『火垂るの墓』高畑勲監督作品 1988年
 片渕監督と関係浅からぬ両監督の、今さら紹介するまでもない代表作。
舞台となった時代の点でも、内容の点でも、『となりのトトロ』と片渕監督の前作『マイマイ新子と千年の魔法』、『火垂るの墓』と『この世界の片隅に』を対応させることは容易にできるが、『この世界の片隅に』はすずさんの描く「ばけもん」に象徴される民俗的、幻想的要素で『となりのトトロ』の要素をも併せ持っているとも解釈できる。
 両作は同時上映であったが、どちらを先に観るかで映画館を出る時の観客の顔が対照的であったとはよく言われることであるが、『この世界の片隅に』を観た観客にはその心配は不要であろう。

◼︎『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』ラッセ・ハルストレム監督作品 1985年
 母親の入院で田舎に預けられた少年イングマルは心細さを感じると「宇宙で死んでしまったあのライカ犬よりはマシだ」と自分を慰めるのだが…。日本では1989年に公開され、当時から広告ポスターなどで『トトロ』と並び称されることもあったスウェーデン映画の秀作。舞台となった時代や子供の日常を描く暖かい視線には確かに共通点を感じた。
(両作の関係性について論じてみたことがあるのでご興味ある向きはご参照ください。→http://www.asahi-net.or.jp/~ug5k-tki/cyberit/others/mylife.html
 片渕監督もかつてtwitterで本作のファンであることをつぶやかれていたことがあったが、前作の『マイマイ新子と千年の魔法』においては母がなく父娘で見知らぬ土地に越してきた貴以子と新子の関係は、原作小説通りではあるものの、イングマルとサガの関係を連想させるところがある。
(こちらについても過去に比較してみたことがある。→http://www.asahi-net.or.jp/~ug5k-tki/cyberit/ps/ps45.html
 さらにいえば、見知らぬ土地に嫁入りしてきたすずさんが内心感じていたであろう孤独感という点では、『この世界の片隅に』にも『マイライフ~』的な要素はあるように思う。イングマルにとっての「犬」とすずさんにとっての「絵を描くこと」も呼応しているといっていいかもしれない。

◼︎『ミツバチのささやき』ビクトル・エリセ監督作品 1973年
 寡作で知られるスペインの映画監督ビクトル・エリセの初長編作品。内戦の傷痕の残るスペインの田舎町で映画『フランケンシュタイン』を観た少女アナが、姉のイサベルの嘘~あの怪物は精霊で呼べば現れる~を信じたことをきっかけに体験する現実と幻想、子供の世界と大人の世界の交錯を描く。
 この作品を挙げることを意外に思われる方もおられるかもしれないが、実はBGM集を聴いていて強く連想したのが『ミツバチのささやき』。そう思ってから改めて映画を観ると、劇伴の曲の雰囲気や映画の中での使い方に共通項があるように思われてきた。
 片渕監督がこの映画のファンであり、前作の『マイマイ新子と千年の魔法』には『ミツバチのささやき』リスペクトな蒸気機関車のシーンがあること、片渕監督が音響監督も兼務していることなどを踏まえるなら、あながち外れていないように思うのだが、どうだろうか。
 もう一点、映画全体を通して観た時、その構造が緊密に組み上がっており、不要なシーンがなく、画面に映っている物の一つ一つに何らかの意味が見出せる、という映画の質感の点でも、共通点があるように思う。
 また、『ミツバチのささやき』は少女アナの通過儀礼を描いた作品であると論じられることが多いと思うが、映画『この世界の片隅に』は、原作よりすずさんの「少女性」を強調することで(原作者のこうの先生はすずさんを年齢なりの「大人の女性」として描いたとのことで、パンフレットなどで、この相違についてコメントされている)、すずさんが大人になる過程を描く通過儀礼テーマを内包する作品として再構成されている。片渕監督の劇場作品『アリーテ姫』『マイマイ新子と千年の魔法』も通過儀礼テーマであることを考えるなら、概ね原作マンガを忠実にアニメ化していながらも、この部分には片渕監督の共通のテーマ性が表現されていると思われる。

◼︎『エル・スール』ビクトル・エリセ監督作品 1983年
 10年に一度しか作品を発表しないといわれていたエリセ監督の第二作。幼い頃からお父さんっ子だったヒロイン、エストレリヤはある日、父親の過去の秘密を知ってしまうのだが…。こちらもまたスペイン内戦の影響が色濃く、やはり通過儀礼テーマの作品でもある。
 本作は、本来は父親の過去を訪ねる南(エル・スール)への旅にヒロインが出発するところで映画が終わるが、実際には旅した南での部分まで撮影はされていたとのこと。ヒロインが旅立つシーンで映画が終わるのは、初見ではやや唐突感はあるものの、南での旅の描写がなくとも緊密な構造でテーマを表現し切った作品になっているあたりはさすがのエリセ監督の職人芸といえよう。
 『この世界の片隅に』においても、原作の膨大なエピソード、情報量を120分では表現し切らず、原作では重要なあるエピソード群を潔いほどばっさりカットしてある。このことが、前述した「すずさんの少女性」を強調する効果ももたらしているため、ファンの中でも、このエピソード込みの完全版?を期待しつつ(実際、30分追加版の制作を視野に入れつつあるとのプロデューサーの意思表示が既に出ている)、とはいえ、現在公開版の緊密な構造やテーマ性が変わってしまうのではないかと危惧する意見も一部あるようである。
 しかし、エリセ作品との共通項、という観点で考えてみた場合、追加されるのは「すずさんが夫の秘密に気づく」ことを軸とするエピソード群であり、これは『エル・スール』におけるヒロインの通過儀礼と近いと言えるように思う。上述した片渕監督の作家性も考えるなら、現行版のテーマ性も継承しつつ、150分版を再構成してもらえるものと期待したい。

2016年12月に読んだ本2017年01月08日 07時50分00秒

 blog読んでいただいている方には一目瞭然ですが、『この世界の片隅に』の物語解析にハマってしまい、読書数は少なめ。とはいえ、12月は生まれて初めてのtwitter古本オフ会@神保町 などもできて楽しかったですね。

■麻生 みこと『小路花唄』1巻 (アフタヌーンKC) 講談社
読了(2016-12-17) ☆☆☆☆

 麻生みことのこれまでのところ最高傑作と信じて疑わない『路地恋花』シリーズ(全4巻)のスピンアウト作品がスタート。「路地」から職人商売を始めて独立する店主の多い中古参となってしまった靴職人のヒロインをメインに、本シリーズと同様にオムニバス形式でゆったりと語られる物語がなんともいとおしい。

■森 薫『乙嫁語り』 9巻 (ビームコミックス) KADOKAWA
読了(2016-12-18) ☆☆☆☆

 お互いに不器用な二人がさまざまなハプニングを経て愛を深めていく展開が、個々の「事件」はちっとも色っぽくはないにも関わらず、なかなか胸キュン。森薫ノリノリだなあ。
 それにしても、未だに前巻比で絵の緻密さが増してきている。番外編的な4コマの中の絵までちまちまと緻密に描きこまれていて、森薫のフェティッシュ作画が止まらない。この人はどこまで行くんだ(笑)。

■福田 和代『碧空のカノン: 航空自衛隊航空中央音楽隊ノート』 (光文社文庫)」 光文社
読了(2016-12-18) ☆☆☆☆

 他の作品はほとんど未読ながら(「本の旅人」の連載を部分的に読んだ程度)、硬派なスパイものとか、そういうイメージで定評のある著者の、まさかの自衛隊ラブコメ。といっても、有川浩の自衛隊ラブコメとは異なり、舞台は航空自衛隊中央音楽隊。これがまた、有川浩に匹敵するラブコメぶりでにまにま(笑)。とはいえ、ストーリーは北村薫ばりの「日常の謎」ミステリとして練り込まれており、いずれもちょっとじんわりする仕掛けもある。秀作。
 ところで、別作品の取材の際に航空自衛隊のリアル「空飛ぶ広報室」の方から「実は音楽隊というのがあるんですが…」と紹介されたのが本作のきっかけだったとか。取材時期からすると、この広報室の中の人、もしかして有川浩の相手したのと同じ人だったりするのだろうか。だとしたら大変なやり手!?

■『この世界の片隅に』製作委員会『この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック』 双葉社
読了(2016-12-28) ☆☆☆☆

 突貫で出版されたためか若干の誤字はあるものの、前半部と後半部に分けたフィルムストーリーとスタッフ、キャスト、原作者等々への充実のインタビュー、その他設定情報、諸々の資料から背景美術や服飾設定などのビジュアル面まで、このコンパクトな本の中にこれでもかと詰め込まれている。ロマンアルバム的なムックはこれまでにも種々買っているが、「情報量」という点ではここまで詰め込まれたものはなかなかない。映画を観て気になるところがある方は、原作とこれを座右に置くべし。

■バリントン・J・ベイリー『時間衝突【新訳版】』 (創元SF文庫) 東京創元社
読了(2016-12-30) ☆☆☆☆★

 内容をほぼ忘れ切っていたので、この作品の驚きを初読と同じく味わえたのは年寄り故の僥倖か(笑)。なるほどこれは、ベイリーがたびたび扱った「時間」テーマの中でも破天荒さ、スケール感、小技的なアイデアの豊富さ、ストーリーのスピード感など、まさにワイドスクリーンバロック。「服飾」というアイデアがやや変化球的だった『カエアンの聖衣』と比べるとSFとしてど真ん中豪速球! これこそまさにベイリー最高傑作といっていいのではないか。
 そして、この時間理論とプリースト『夢幻諸島から』の世界観の共通点に気がつけたのは個人的収穫。いずれも、「世界」にはもともと「時間」はないか、止まっているんだけど、人間の「意識」が「時間」生み出しているのではないか、という点では実はかなり近い世界観かもしれない。ベイリーの場合は「世界」を伝播する「波」の上に知的生命が発生して「時間」を観測しているが、プリーストの場合は世界を「観測」するのが個々の人間である、ということではないか、とか、ちょっと考えたりした。

【ネタバレあり】右手が語る/騙る物語(『この世界の片隅に』)2016年12月30日 20時26分19秒

 前回まで、『この世界の片隅に』原作が持つ幻想/民俗的要素に対してSF/幻想文学の文法による構造解析を試みてきた。
 以下はこれまでの考察の基盤ともした考え方でもあるが、原作に関しては、マンガとしての様々な実験手法そのものが、「すずさんの右手」で描かれた(実際に描かれていなくとも、描くことができる/意識の上では描いていたかもしれない)ものとして捉えることができると思われる。

◼︎右手が手にした画材
 特に、物語の冒頭と末尾の「年月」以外のサブタイトルの付された短編間では、描かれる対象がリンクしており、また、特に失われた右手が用いる画材もまた、描かれる対象とリンクしている。

「冬の記憶」ー「人待ちの街」
 ー短い鉛筆で「鬼イチャン」→ばけもんが描かれる。
「大潮の頃」ー「りんどうの秘密」
 ー口紅で座敷童→リンが描かれる。
「波のうさぎ」ー「水鳥の青葉」
 ー羽根ペンでさぎ、青葉、波のうさぎが描かれる。

 こうしてみると、「鬼イチャン」は、子供の頃に楽描きしすぎてちびた鉛筆で、リンは二葉館を訪ねた際にもらった口紅で、さぎは哲にもらった羽根のペンで描かれているのがわかる。
 なお、末尾側にはさらにふたつの短編がある。

「晴れそめの径」
 ー地面に石で径子、北條親子、晴美等が描かれる。
「しあはせの手紙」
 ー長い鉛筆でヨーコ母娘が描かれる。

 ここで、晴美に関わる来歴が地面に石で描かれているのは、すずさんが防空壕で描いた似顔絵に対応しているものと思われる。一方、対応するものがないヨーコ母娘は普通の鉛筆で描かれている。

◼︎水彩画と羽根ペン
 これらのエピソード群の中でも、水原哲と青葉をめぐる2篇は基本的には客観視線で描かれたエピソードであり、「右手」の介在は控えめで、「波のうさぎ」ではすずさんの水彩画が哲の去るシーンと同化している点と、着底した青葉を見る哲を見たすずさんが、波のうさぎやさぎを思い描いている程度にとどまる。
 これは、前回までの解釈に沿うなら、すずさんの意識が未だ左手の描く歪んだ世界にありながらも、右手の世界の感覚を取り戻しつつあるとも解釈でき、すずさんの精神状態が解離状態から回復するきっかけをつかみつつある、と考えることもできるだろう。
一方で、これらのエピソードには明確な幻想性もなく、「右手」による「語り」=すずさんの現実に対する干渉も特に考えなくてよいと思われる。

◼︎もうひとつの径?
 特に対応するエピソードのない「晴れそめの径」は「右手」が石で地面に描いているものとして、駐留軍のジープ、右手を失った姿のすずさんや、(息子の消息を知らせる)手紙を読む刈谷さんなど、すずさんにとっての普通の現実=「左手の世界」の出来事が描かれているように見受けられる。そこで並列に、北條家の過去、径子と晴美のこれまでなど、これもまたすずさんをとりまく現実に属する事柄が描かれている。普通に考えれば、このエピソードに対して、これまで行なってきたような考察を無理に試みる必要はないかもしれない。
 しかし、ここで敢えて、このエピソードもまた「右手」によって描かれていることから、「右手」が、あり得る可能性を付随する過去まで含めて「観測」しているとするとどうだろう。
 そう考えた場合、ここで「右手」は北條家の人たちの様々な可能性の中から、現実に即した、すずさんの嫁ぎ先としての北條家の人々を「観測」し、描き出したのかもしれない。
 仮にここで「右手」が径子や晴美に関わる現実干渉〜径子が別の相手と結ばれ実家を頻繁には訪ねない、晴美が生まれていない、など〜を行なった場合、すずさんの右手が失われることもなく、(これまでに考察してきたような)「語り手」としての「右手」の力は発揮されないため、これらのこれまでに起こった通りの現実を描かざるを得なかったのかもしれない。
 とはいえ、一連の解釈を援用すると、仮に「右手」の采配がなかったとすれば、すずさんは北條家に来ず、その世界においては晴美を連れて空襲に遭っていたのは径子であったかもしれない、という点は指摘しておいてもよいかもしれない。

◼︎右手が語る/騙る物語
 「りんどうの秘密」においては、「左手の世界」ですずさんが遊郭跡地を訪ねるまでが描かれる一方で、「右手」はりんどう=リンの来歴にまつわる物語を紅で描き、ラストでは紅で描かれたリンとすずさんが重ね合わされるという趣向である。タイトルの「秘密」は、周作とリンの関係をすずさんが気づいているという「秘密」であるとともに、リンの正体という意味での「秘密」でもある。
 ここで、右手が紅で「描く/語る」物語によるならば、すずさんが草津の祖母の家で出会った座敷童が、呉にまで行き着き、博覧会場で拾われて遊郭の下働きから遊女になり、周作と出会ったことになっている。普通に読めば、読者は「大潮の頃」との物語の秘密のつながりが明かされたことで、すずさんとリンの不思議な縁に感慨を覚えるだろう。
 ところが、作者のこうの先生はここに一つのトリックを使っている。「大潮の頃」はすいかが物語のキーアイテムであり、10年8月の出来事ということになっているのだが、実は呉市主催の博覧会は10年3月頃に開催されており、そこで遊郭に拾われたリンが8月に草津にいるはずがないのである。
 このことは、呉市のホームページなどの年表でもすぐわかるが、こうの先生自らも、実は「晴れそめの径」の中に「博覧会は10年春」であることを作者注釈として小さく書き込んでいる。上記の時系列の矛盾は、原作マンガだけを読んでいる人でも、気づける仕掛けになっているのだ。
 「りんどうの秘密」が「わかった」と思っていた読者からすると、大いに混乱する仕掛けであるが、これはどういう解釈をすべきだろうか?
 比較的素直な解釈をするなら、『この世界の片隅に』原作全体が、すずさんの右手が描く/語る「物語」であり、もともと虚実入り混じっているため、その虚構性を気づく人には気づかせるという意味合いはあるだろう。ただ、それだけであるなら、わざわざ時系列が特定できる博覧会を選んで意図的な矛盾を描く必要はないように思われる。
 時系列の矛盾を素直に解釈するなら、座敷童の少女と、リンは実は別人であり、そこにつながりを持たせた「りんどうの秘密」の物語は、右手の(優しい?)嘘なのかもしれない。
 あるいは、座敷童の少女とリンは全くの別人ではなく一人の「白木リン」という少女の可能性であり、前回の考察のように、様々な可能性を「観測」できるようになった「右手」は、リンのふたつの可能性を、すずさんが呉で出会ったリンの現実として「観測」し、物語として定着させたのかもしれない。
 SF/幻想文学の文脈では、こういった読者を混乱させる仕掛けを「語り/騙り」と呼ぶが、上記の解釈を採るなら、すずさんの失われた右手は、まさに「信頼できない語り手/騙り手」といえるだろう。

◼︎終わりに
 3回に渡って、『この世界の片隅に』原作が持つ多層的な構造について、SF/幻想文学の観点で読み解く試みを行なってみた。
 勢いで書いた部分も多々あり、また、もとより、こうの先生ご本人が意図していないであろう解釈もあると思うが、私論/試論ということでご寛恕願いたい。
 本論では、あくまでも原作ベースでの考察を試みたが、アニメ版は原作に描かれていたことは割愛されていても同じことが起こっていることを示唆するヒントが随所に盛り込まれ、また、原作の実験手法も、可能な限りアニメで可能な近い手法/アニメだからこそ表現できる手法に翻訳されている。そう考えるなら、「すずさんがそこにいる」リアリティを感じさせるアニメ版においても、同じ物語構造は内包されていると考えてよいと思っている。(実際、blogやtwitterでいただいたコメントではアニメ初見でその幻想性を感じられた方はおられるようである)
 とはいえ、思考実験的な入り組んだ考察は今回でひと段落としておきたい。

【ネタバレあり】左手が描く物語(『この世界の片隅に』)2016年12月11日 20時17分28秒

 原作『この世界の片隅に』の実験的マンガ手法は数々ある。筆だけで描く、作中で描いている絵が物語の一部になる、羽ペンを自作して描く、左手で描く、口紅で描く…など、これらは、実験ギャクマンガでつとに知られる唐沢なをき氏と同様に「その手法で描くことが面白い」あるいは「その手法だからこそ成立するネタがある」など、マンガの技術的な面白さに主眼をおいて語られることが多かったように思われる。

 しかし、前回、原作の物語構造を解析してみて、それらの手法の中に、その手法で描くことと物語構造が密接にリンクしていると思われる箇所が多いことに改めて気がついた。
 比較的わかりやすい?ところでは、物語序盤から随所に挿入されているすずさん作のマンガ「鬼イチャン」や口紅で描かれる「りんどうの秘密」については前回の考察に含めたが、そのポイントは、それらが「右手が描いた(架空の?)物語」であることを、物語そのものの内容だけでなく、手法によっても、より際立たせている、と言えるだろう。
 それであるならば、その実験手法のうち「左手で描いた」箇所にも「左手が描いた(現実の?)物語」という暗喩があったりはしないだろうか。

◼︎心象風景としての「左手が描く背景」
 こうの先生が語るところによると、すずさんが右手を失う展開は連載開始前から構想されており、左手で背景を描くための練習も連載前から行ない準備していた(しかも練習しすぎて上手くなり過ぎないよう、必要なレベルに達したところで練習を止めておいた)とのこと。
 このことは、「左手で描く背景」が作品の構想、構成の上で、そこまでする必要のある重要な要素であったことをうかがわせる。

 その第一の目的は、一読して明らかな通り、右手を失ったすずさんの「歪んでしまった」心象風景であろう。この時のすずさんがおそらく離人症の状態にあったことを、マンガならではの手法で表現しているといえる。
 離人症の症状を表現する言葉を探してググってみたところ、ちょうどよいサイトをみつけた。

https://hapila.jp/depersonalization

 離人症とは、どこか現実感のない、自分と周囲の現実の間にオブラートでもかぶっているような感覚だが、上記サイトではこの症状の特徴を以下のように表現している。(自分にも経験はあるのだが、下記はなかなか的確な表現だと思う)

・時空の歪み
・もう一人の自分が、現実の自分を見ているように感じる
・周りに見える世界と、自分との距離感における違和感
・明晰夢
・感情や欲がなくなる

 左手による描線の歪みは、「時空の歪み」や「世界と自分の距離感における違和感」を、ダイレクトに表現するものだろう。「明晰夢」と解釈できるシーンはないものの、これは夢の中の自分を客観視するもう一人の自分がいる、という点で、「もう一人の自分が〜」と近い症状であり、これは原作の作中ではすずさんの(他の登場人物から見える)行動と、それと噛み合わないモノローグの並列という手法でも表現されている。特に、呉を訪ねてきたすみちゃんとの楽しげな姉妹の会話と裏腹の醒めたモノローグは「感情がなくなる」ことを示す表現でもあるだろう。

 時限弾頭から呉の大空襲まで落ち着く間もなかったであろうすずさんが、「自分の右手がもうない」ことをはっきり自覚したページからこの「歪んだ背景」が始まり、最終回、広島で周作と再会し、孤児を連れて呉に帰り着いたページでその歪みが回復する、というのは、抑鬱状態の始まりから回復までの心の動きを表現する手法として(マンガという媒体だからこそ成立させうる心理表現として)極めて優れた到達点と言えると思う。

◼︎すずさんの世界
 『この世界の片隅に』においては様々な実験的手法が試みられていることは既に述べた通りであり(本稿末尾にそれらの手法を簡単にまとめてみた)、それらの手法がここまでの考察のヒントとなっている。しかし、ここまで考察してくると、逆に一見実験的に見えていない手法の中にも、ヒントがありそうに思えてくる。
 そう思って再読をしてみると、気になる手法がある。一見すると、資料写真のある実在の建物を描写している箇所ではないかと推察されるのだが、建物の輪郭をはっきりとは描かず、斜線を主体にスケッチ風に描く手法である。
 この手法は『夕凪の街 桜の国』でも、原爆ドームなどを描く箇所に用いられており、連載開始前に描かれた「冬の記憶」においてもすずさんが歩く中島本町の風景などがこの手法で描かれている。

 こうの先生が膨大な資料を元に本作を描いたことは知られており、これらの写生的な表現はコミックス巻末に書かれたこうの先生のコメント「間違っていたなら教えてください 今のうちに」という言葉に象徴される、背景資料の存在を暗示する表現でもあるのだろう。
 とはいったものの、本作においては(『夕凪の街 桜の国』と比べてみても)この手法が印象的な場面に多用されているように見受けられる。それは、単に参考資料の存在を示すためだけに使われているのだろうか。

 『夕凪の街 桜の国』と本作の最大の違いとしては、「すずさんは絵を描く人」である点を挙げることができるだろう。すずさんが広島に里帰りするエピソードでは、名残を惜しむように広島の街を写生するすずさんの姿が描かれているが、ここでは、作中の背景だけでなく、すずさんのスケッチブックに描かれる絵も、同様のタッチで描かれていることに気がつかされる。
 これは、シンプルに解釈するなら、すずさんの画力が写実的な域にあることを示しているわけだが、それだけだろうか。このタッチの背景は、すずさんが一人で行動しているシーンに使われていることが多い。これは、すずさんにとって、周囲の世界は「そのようなもの」として認識されている、ということを意味しているのかもしれない。

 すずさんは、子供の頃から暇さえあれば絵を描いていた訳だが、目で見たものを紙の上に描きとることは、すずさんにとっては手足を動かす、指を動かすなどの身体の動作の延長で、身体感覚の一部にまでなっていたのではなかろうか。スケッチ風に描かれた背景は「すずさんにとって「世界」は「自分の右手で描くことのできるもの」として認識されていた」ことを示している、と解釈してみよう。
 「大潮の頃」が筆でざっくり描かれているのは、幼少の頃のおぼろげな記憶としての表現であるとともに、その当時のすずさんが、まだ拙いながらも、やはり「右手で描ける絵」として世界を認識していた(その当時の画力が認識していた世界の姿を左右する)ことをも暗示しているのかもしれない。「波のうさぎ」ですずさんが画用紙に描いていた絵が哲の立ち去る風景に融合しているのも同じ解釈が可能だろう。
 そう考えるなら、その身体感覚、世界認識の方法そのものが「右手」とともに失われることは、すずさんにとっては、まさに「世界」そのものが姿を変えることを意味していたと解釈できるだろう。

◼︎「右手の世界」と「左手の世界」の乖離と統合
 SF的な考え方では、量子力学の考え方を援用した「世界の観測」がよく用いられる。前回の考察に用いたいわゆる「シュレディンガーの猫」についても、不確定な状態にある猫の生死を確定させるのは蓋を開けた人による「観測」である。「誰もいない森の中で木が倒れたら…」の例え話とも相通じる要素があるが、「知性/意識を持った存在が観測することで世界が決定される」というモチーフは形を変え、数々のSFのアイデアを生み出してきた。
 この「世界の観測」が文明・知性体レベルで共有されているという設定からは、ジェイムズ・ブリッシュ『時の凱歌』やバリントン・J・ベイリー『時間衝突』のような壮大なスケールの作品が生まれるし、クリストファー・プリーストの『魔法』、『双生児』、『夢幻諸島から』などは、登場人物一人一人が異なる世界を「観測」しているために、視点人物により異なる現実の間に(読者からみて)齟齬が起きていることをうかがわせる描写が特徴である。

 ここで、すずさんの「身体感覚としての世界認識」にこの考え方を組み合わせてみると、すずさんは単に目で見る、耳で聞くなどの五感に加えて、「右手で描く」ことまで含めて世界を「観測」していたことになる。そのため、右手が失われることで認識する世界が変貌することは先に指摘した通りだが、実は、失われた右手の方にも、「観測者」としての力があったと解釈するとどうだろう。本来一人の人間に属していた「観測者」の力が、ここで二つに分裂したのではないか。

 もちろん、失われた右手は単独では物理的存在を維持できないが、四肢のどれかを失った人が、あるはずのない手や足に感覚(幻肢)や痛み(幻肢痛)を感じることがあることは知られている(医学的には、脳内に元の四肢のあった際の神経のネットワークが残っているためではないか等と推察されているようである)。
 すずさんの意識に備わっていた「観測」のうち、左手をもつ肉体の方は、今まで通り周囲の人々と同じ現実を「観測」し続けるが、幻肢となった右手は、「左手の世界」から乖離して、別の現実を「観測」しうる状態となり、さらには「描く」ことで「観測」したもう一つの現実を、同じ意識でつながっているすずさんの現実の一部とするできるようになったのかもしれない。

 この「右手の世界」と「左手の世界」の乖離には、「観測」の主であるすずさんの意識が、離人症によって「時空の歪み」や「もう一人の自分が、現実の自分を見ているように感じる」ような状態にあったことも関係していると考えることもできるかもしれない。意識が乖離状態になることが、すずさんにとっての世界をも乖離させるトリガーとなったと考えることも出来るだろう。
 そして、すずさんの意識が「右手の世界」による癒しともいえる現実干渉を経るとともに、気持ちの上でも「右手のない自分」を受け入れたことで、最終的に「左手の世界」と「右手の世界」が統合されていったのだろう。

 前回は、「すずさんの右手」が「語り手」であることを前提となる仮定として考察を進めたが、今回の考察では、なぜ「右手」がそのように機能できるのか、に関してSF的仮説を提案できたように思う。

■最後に
 前回の考察「右手が描く物語」を『SF/幻想文学の観点から『この世界の片隅に』(原作)の物語構造解析をしてみた(原作を繰り返し読んでいる方向け)』としてツイートしてみたところ、思いのほかいろいろな人に読んでもらえたようであった。
 ということで、さらに姉妹編として考察を進めてみた。例によって書き進めながら試行錯誤したが、なんとか、ちょうど対になる考察にたどり着けたような気がする。こうの先生がどこまで確信犯で仕組んだものかは知るすべもないが、改めて深堀のしがいのある原作であることを実感した次第である。


<参考:各回の手法一覧>
冬の記憶:特になし
大潮の頃:筆描き
波のうさぎ:風景画を描く過程、マンガと作中の風景画の一体化
第1回18年12月:波のうさぎと同じコマ割り
第2回19年2月:特になし
第3回19年2月:すずさんの葉書、時間変化のコマ割り
第4回19年2月:筆描き、隣組ミュージカル
第5回19年3月:裁縫手順の図解
第6回19年3月:特になし
第7回19年4月:回覧板がコマに
第8回19年5月:調理手順の図解、筆描きの楠木公
第9回19年5月:特になし
第10回19年6月:小松菜の間引きと建物疎開
第11回19年7月:特になし
第12回19年7月:特になし
第13回19年8月:サイレント
第14回19年8月:特になし
第15回19年9月:サイレント
第16回19年9月:特になし
第17回19年10月:特になし
第18回19年10月:サイレント+回想並列
第19回19年11月:特になし
第20回19年11月:人生相談
第21回19年12月:特になし
第22回19年12月:羽根ペン
第23回20年正月:愛國いろはかるた
第24回20年2月:特になし
第25回20年2月:特になし
第26回20年3月:サイレント
第27回20年3月:特になし
第28回20年4月:特になし
第29回20年4月:すずさんのノート
第30回20年5月:鎮守府年表
第31回20年5月:特になし
第32回20年6月:地図
第33回20年6月:鉛筆画
第34回20年7月:特になし
第35回20年7月:左手背景
第36回20年7月:左手背景
第37回20年8月:左手背景
第38回20年8月:左手背景
第39回20年8月:左手背景
第40回20年9月:左手背景
第41回りんどうの秘密:左手背景、口紅画
第42回晴れそめの径:左手背景、道路上の絵?
第43回水鳥の青葉:左手背景、青葉と波のうさぎ、さぎ
第44回人待ちの街:左手背景、鬼イチャン冒険記
最終回しあはせの手紙:左手背景、鉛筆画、水彩画

※特に印象的と思われたものをピックアップした。これ以外にも細かくあげられる手法も多々あると思うが、あくまでも考察の参考としてのリストである点はご理解いただきたい。

2016年11月に読んだ本2016年12月04日 21時14分28秒

 11月は『この世界の片隅に』関連書籍が中心であまり冊数は進まず。原作マンガもひたすら読み返しているので、12月も余波が続きそうかな。

■施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』 3巻 (IDコミックス REXコミックス)」一迅社
読了(2016-11-07) ☆☆☆☆

 ド嬢が「本を読んでいる」のが本巻最大の衝撃! 友人関係が続く中で、お互いの関係性が深まっているのが感じられて楽しい。本を読む友だちがいることの楽しさが感じられてマル。

■『「この世界の片隅に」公式アートブック』 宝島社
読了(2016-11-13) ☆☆☆☆

 呉市立美術館で開催されていた展覧会の解説コメントはほぼこのアートブックと内容がリンクしており、実質的にはこの展覧会の図録といえるかと思う。
 この展覧会、『この世界の片隅に』原作の全ページ原画と劇中に登場する品々の現物などがつぶさに確認できる力入りまくりの圧倒的な情報量だったので、その肝の部分が何度でも再確認できるのはうれしい。

■深緑 野分『分かれ道ノストラダムス』 双葉社
読了(2016-11-13) ☆☆☆★

 ノストラダムスの大予言とオウム真理教をモチーフにした一作。同じようなモチーフで世紀末リアルタイムで発表されていた先駆的作品には陽気碑の短編「世界が終わるのを待てない」(『えっちーず』シリーズの中の短編で二つの短編がペアとなっている)があるが、こちらの方がよりサイコで、スペクタクル要素もあり。
 なお、作者のツイートによると、物語の背景となるヒロインのちょっと痛ましい想い出には、作者の実体験もモチーフになっているとの由。
 ちょっと前に読んだ粕谷知世『終わり続ける世界のなかで』はノストラダムスの大予言が当時の少年少女にもたらした(一種の)呪いからの解放の物語であったが、こういったモチーフの作品はこれからもいろいろな作家から出てくるのかもしれない。

■「この世界の片隅に」製作委員会『この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集』 双葉社
読了(2016-11-19) ☆☆☆☆☆

 絵コンテには呉の空襲に来たパイロットの名前まで書いてある、とネットで書かれていたので該当のシーンを確認してみたら、ホントに書いてあった。映像ではそこまでは伝わらないが、すずさんたちにとっては脅威でしかない戦闘も人間の営みのひとつ、ということなのかも。あのシチュエーションで円太郎父ちゃんが自分の仕事の成果(紫電改に搭載された2000馬力エンジン)をしみじみと語ることとも通じるのか。
 これは一例で、映像だけでは読み取れない(あえて読み取れなくてもよい)演出意図をじっくり考察することができる、映画『この世界の片隅に』鑑賞の最強のガイドブック。
 惜しむらくは、劇場版準拠で割愛されているシーンもあるようなので、そっちも読んでみたいように思う。

■七月 鏡一・早瀬マサト『幻魔大戦 Rebirth』 4巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 小学館
読了(2016-11-26) ☆☆☆★

 表紙のイラストに描かれている通り、前巻ラストからの引きで「神話前夜の章」の世界からルーフとジンが参戦、さらに丈のいない東京で三千子を守るのはミュータント・サブと月影! ウルフガイの設定を引きつつ、敵方の過去のエピソードは『デスハンター/死霊狩り』も思わせる。まさにスーパー平井&石森大戦の様相だが、ここまで風呂敷広げて大丈夫か!?

■西尾 維新『掟上今日子の家計簿』 講談社
読了(2016-11-27) ☆☆☆★

 シリーズの中では定型フォーマットとなりつつある、4人の警部が依頼する事件の解決を今日子さんが行なう形式の定型アンソロジー。このシリーズは、種々のミステリの定型に「忘却探偵」を当てはめた時におこる異化効果を楽しむ趣向といえるだろう。
 ということで、今回も種々の定番トリックを今日子さんにぶつける趣向。叙述トリックの回の謎解きが別のトリックで、別の回のトリックが(結果的に)叙述トリックになっていたりする「外し」がけっこう楽しい。

【ネタバレあり】右手が描く物語(『この世界の片隅に』)2016年11月27日 10時32分26秒

 原作『この世界の片隅に』を読んだ後、妻から「結局、あのばけもんってなんだったの?」という素朴な質問を投げかけられた。自分も結論めいたものは持っていなかったので、その場はそのままになってしまったが、映画鑑賞後に目にしたあるツイートをきっかけに、少し考察が自分の中で深まった感じがするので、頭の整理も兼ねて文章にしてみたい。
 なお、本論考は主に『この世界の片隅に』原作に関する解釈であることから、基本的に原作、映画の双方についてネタバレ前提なのでその点はご注意いただきたい。

◼︎「ばけもん」がしたこと。
 物語中、「ばけもん」が姿を表すのは以下の2ヶ所だけである。

1:冬の記憶
・周作少年をさらって背負ったカゴに入れていた。
・幼いすずさんに声をかけ、同じくカゴに入れる。
・すずさんの(子供らしい)機転で、相生橋の上で眠らされる。

2:人待ちの街
・相生橋の上で周作とすずさんと再会?する。

 特に、物語終盤、映画予告編のキーフレーズでもあり、作品タイトルの含意そのものでもあるすずさんの台詞「ありがとう。この世界の片隅に、うちを見つけてくれて」の後に登場するのがいかにも思わせぶりなのだが、よく考えるまでもなく、呉に住む周作少年と江波に住むすずさんの接点はこの一件の他になく、周作が「この世界の片隅に」すずさんを見つけることができ、わざわざ名前だけを頼りにすずさんを探して求婚したということも、この事件が、少なくともこの二人にとっては「現実にあったこと」だったことを示しているだろう。

 映画『この世界の片隅に』公式アートブック、公式ガイドブック等での片渕監督の談話としては、過去にあった二人の実際の出会いが、すずさんの中ではそのような物語になっていたのだろう、との解釈を示している。
 映画では、原作にはあったすずさんのモノローグ「でも海苔が一枚足りなくて翌日父が大慌てでおわびに行ったのも確かなのだ」がなくなっており、また、原作とは異なる演出として、序盤の「冬の記憶」が半ばすずさんが絵を描きながら妹のすみちゃんに語る物語として演出されることで、映画においてはその物語の架空性がより強調されているとも解釈できる。

 物語中、すずさんは周作があの時の少年であることには気がついておらず、周作の口からも具体的な出会いが語られることはない。
 少女マンガ的観点からすると典型的な「あの時の男の子」なのだが、ヒロイン側がそのことを忘れ切っているのはいかにも「ぼーっとした」すずさんらしい(笑)。
 一方、周作の方は4つ年上でもあり、記憶もしっかりあったのだろうが、記憶にあるあの事件をどの程度現実のことだと思っていたのだろうか。名前を頼りにすずさんを探した訳だが、見つからなかったら「やっぱり夢のようなものだったのかも」と思ったりしたかもしれない。

◼︎「ばけもん」の正体は?
 物語の序盤では、この「ばけもん」、座敷童、と、空想上の存在が登場する。
 このうち、座敷童の正体が、すずさんが後に呉の遊郭で出会うリンであることは、読者/観客にはわかるようになっている。(特に映画版では、よりわかりやすく演出されていると思う)
 座敷童が実在の少女リンであったのであれば、バケモノの方も、何らかの実在があるはずではないのか。ないのであれば、(上述の通り)そもそも二人が出会い、結婚することもなかったはずなのだから。
 しかし、物語の終盤においては、この「ばけもん」は「すずさんの失われた右手」が描いた、「南方の島で暴れまくり、ついにはワニと結婚!してしまったすずさんの鬼イチャン」が現実に姿を現したかのような描かれ方をしている。もともと空想の存在が、さらに空想の産物と紐付けられているのだ。

 この点の描き方は原作と映画で異なる。原作では相生橋の上で、すずさんは周作と間違えて「ばけもん」の毛むくじゃらの手に触れてしまう、すなわち、手で触われる実体があるのだが、映画では、「ばけもん」は二人の後ろを通り過ぎるだけであり、さらに、背負ったカゴの中からワニの奥さんが顔を覗かせたりしており、実体があるのかどうか疑わしい描かれ方となっている。これは、先に指摘した「冬の記憶」の映画版演出と方向性は同じで、より「ばけもん」の架空性を強調していると考えることができるだろう。

 さて、「ばけもん」の実体の有無はいったん措くこととして、もし仮に、この「ばけもん」が同じ存在であるとするなら、すずさんの兄がまだ子供であった、南方に出征する以前の「冬の記憶」の時期に存在するはずはない。
 「ばけもん」の架空性を強調した映画版の解釈をとるなら、この「ばけもん」はすずさんの心の中の空想が生み出したものであり、すずさんがすみちゃんに語る絵物語の中の一種のスターキャラクターのようなものと考えることもできるだろう。そのような解釈なら、上記のような矛盾は考えるだけ野暮だろう。
 一方で、海苔は実際に一枚減っており、「ばけもん」の手に触れることもできた原作からはどういう解釈が成り立つだろうか。

◼︎右手が描く物語
 原作においては、すずさんの右手は物語中、時折、神の視点を持ったり、現実に干渉したりしているように見受けられる。それらは、こうの史代先生の実験的マンガ手法として語られることは多いが、なぜその手法で描かれているのか、から、物語の中での解釈を行なうことも出来るのではないか。

 もっとも顕著なのは、右手のモノローグとして語られる最終回で、ここでは、右手がすずさんと孤児を引き合わせたかのような描かれ方をしている。
 リンの来歴が明らかとなる「りんどうの秘密」においても、リンの生い立ちは「右手が口紅で描いた物語」という形で提示される。リン本人が自らの生い立ちをすずさんに語ったとは思われないので、ここでも右手はすずさんの知り得ないことを知っている、一種の神の視点から物語を語っている。

 さて、この論考のきっかけとなったある方のツイートは、要約するなら概ね以下のようなものであった。

・すずさんは「信頼できない語り手」であり、この物語が物語中の事実を反映しているとは限らない。
・この物語は右手を失った母親の死ぬ間際の夢のようなものかもしれない。

 映画は「すずさんが本当にいたように感じさせる」ことに主眼を置いており、すでに述べてきたような、「ばけもん」の架空性の強調はその方針からなされているものと思われるが、確かに、原作ベースで考えるなら、上記の解釈もあながち否定できないように思う。

 さらにいうなら、原作においては、物語全体の語り手がすずさんの右手と解釈してもよいような構造になっている。「物語の語り手」であるなら、一種の神の視点を持っていることも容易に首肯できるだろう。
 その解釈を採るなら、「右手が描く物語」はすずさんにとっての現実に干渉しうる、ということにならないだろうか。実際、原作の最終回は右手がモノローグを語りながら、広島の母娘を描き出し、すずさんと引き会わせる、という趣向となっている。

 この「失われた後に右手が描いたもの」(すずさん本人は知り得ないこと)は、「右手が描くことによって初めて物語中に出現した」と考えることはできないだろうか。そう考えるなら、原作の終盤で右手が描き出しているのはすずさんが引きとる孤児だけでなく、マンガ「鬼イチャン」では「ばけもん」、さらには「りんどうの秘密」におけるリンも該当していることに気がつかされる。
 シュレディンガーの猫の解釈で、こんな話を聞いたことがある。蓋を開けるまでは生きているか死んでいるかが確定していない猫が、死んでいたとした場合、それはいつ死んだことになるのか? 死体を調べて死亡推定時刻がわかるなら、その時にはもう死んでいたことになるんじゃないのか? いや、そうではなく、蓋を開けて猫が死んでいることが「観測」された時に、死亡推定時刻も含めてその猫の死が「確定」するのだ、という考え方である。
 原作終盤で右手が行なっているのはそれに近いことではなかろうか。すなわち、「ばけもん」や「リン」や「孤児」を、その背景設定込みで物語の中に現出させている、と考えるなら、先に指摘したような時系列の矛盾は考えなくてよいことになるだろう。

 そう思って、原作の目次を見返してみると、終盤で右手が語り始める「りんどうの秘密」から最終回までは、回ごとの副題が(それまでの年・月ではなく)あることに改めて気付かされる。
 原作の冒頭の目次に立ち返れば、「ばけもん」「リン」の登場するエピソードを含め、副題がある。もちろん、連載に先立って発表された短編だから、という現実的な理由もあるものの、単に年月で示されるエピソード群が、独立した副題のあるエピソード群で挟まれているという物語の全体構造は意味深である。

 さて、この解釈を採るとした場合、右手がしたことはすずさんにとっての「出会い」という共通項があることにも気づく。「ばけもん」は周作がすずさんをみつけるきっかけを作り、「リン」は一人で呉に嫁入りしたすずさんの友人となり、「孤児」はすずさんの娘となる。右手は、失われた後に、「語り手」としての力を使い、すずさんに伴侶と友人と娘を与えてくれたのかもしれない。

 そこまで考えてしまうと、右手はいつ失われたのか、も隠されたポイントと解釈できるかもしれない。すずさんが呉に嫁入りすることさえも、失われた後の右手の采配と考えることができるので、先に紹介したつぶやきで指摘されていた通り、右手が失われたのは、実は広島での出来事なのかもしれない。
 広島に嫁入りし、夫を失い、自らも死んでいくしかなかった「もう一人のすずさん」の右手が、呉に嫁入りし、夫も失わない「もう一人の自分」の物語を描き出した。しかし、語り直された物語の中でも、呉での生活には激しい空襲が繰り返されるし、右手が「語り手」として物語を再構築する力が「失われた」がために発揮されているのだとすると、「語り手」である右手は呉での物語の中でも最終的には失われなくてはならない。むしろ、失われることによって、広島での物語を語ることができ、最後の娘とのめぐりあわせが完結する。
 …一種のループ構造だろうか。ちょっとこわい考えになってしまったかもしれない。

 これは、あまりそこまでは考察したくなかった類いの悲しい解釈とも言えるのだが、この考察では、すずさんが呉では恵まれなかった、別の時間軸?での娘と時空を超えて(!?)めぐり会うことができた、と考えることも出来るのが救いになるようには思う。

■最後に
 こういったメタ解釈は、SFファン、幻想文学ファンの習い性のようなものともいえるが、ちょっと前までこのblogで続けていたプリースト『双生児』解析でいろいろと考察していた癖がまだつづいているかもしれない。
 逆に言えば、原作『この世界の片隅に』がどれほど多層的な要素を持っているか、ということでもある。当時の風俗、生活、史実を徹底的に調べ尽くした生活マンガでもあり、妖怪的な存在が共存する民俗的な側面も持ち、唐沢なをきとタメを張れる実験マンガでもあり、今回考察したような幻想文学、SF的な考察の余地まである。一コマ一コマに何らかの仕掛け、仕込みがあり、何度読んでも新しい発見がある。あらためて、恐るべき作品であることを実感している。これからも、折に触れては読み返すことになりそうである。

 一方で、片渕監督はおそらく原作のもつある種のメタ構造にはもともと気付かれており、既に述べてきた通り、映画版における物語構造からは、そう言った要素を極力排除していると思う。物語終盤、絵コンテ段階ではあった「右手」の語りかけが、完成した映画ではなくなっている点からも共通の意図を読み取ることができるだろう。
 映画版については、まさにそこにいるかのように身近なすずさんの存在感をあますところなく味わうことにしたい。

2016年10月に読んだ本2016年11月03日 22時10分53秒

 10月は出張やら観劇やら観劇やら鑑賞やら鑑賞やらいろいろあり、月間個体移動距離もすごいことに。そんなこんなで活字分はやや少なめかも。

■たかみち『LO画集2-A -TAKAMICHI LOOP WORKS- (FLOW COMICS)』 茜新社
 読了(2016-10-04) ☆☆☆☆★

 忘れた頃に出た、デジタル世代のおおた慶文といえるかもしれない美少女イラストレーターたかみちの手になる、LO画集の第二弾。
 やはり継続は力と言うべきか、イラストもコピーもレイアウトも第一弾より研ぎすまさされている感じがする。まずイラストを観る。制作裏話と対照させながら1枚1枚観返す。さらに、ぱらぱらめくって楽しむ。1冊で三度でも四度でも美味しい。
 デジタル世代の描く背景美術やレイアウトの美しさ、モチーフとした現実の風景のデフォルメと潤色という点では、映画とイラストというメディアの違いはあるものの、新海誠の映像美ともちょっと共通点はあるかもしれない。

■北村 薫『月の砂漠をさばさばと(新潮文庫)』 新潮社
 読了(2016-10-05) ☆☆☆☆

 単行本は出てすぐに読んでいたけど、文庫であらためて再読。
 おかあさんとさきちゃんのほんわかとした日常をつづる連作短編集。表題からもわかる通り、だじゃれや言葉遊びがキーになる話が多い。
 内容的にはもちろんミステリではないのだが、一方で、あちこちに仕込まれたちょっとした描写が、描かれていない物語の背景をおぼろにうかびあがらせるあたりのちょっとビターな味わいは流石の北村薫品質。

■西尾 維新『掟上今日子の退職願』 講談社
 読了(2016-10-9) ☆☆☆

 どんどん出ている忘却探偵シリーズ。こちらは、いかにもミステリに典型的に出てくる典型的な4種類の「死体」をめぐる事件を4人の女性警部の視点から描いた趣向の点で、以前の『挑戦状』とペアになる連作短編集。その一冊としての構成、趣向に対して、ミステリとしてのアイデア面ではやや物足りない箇所もあるものの、まあ、それなりに楽しめた。

■西尾 維新『掟上今日子の婚姻届』 講談社
 読了(2016-10-10) ☆☆☆☆

 忘却探偵シリーズのキーキャラクター厄介くん視点の長篇。今回は、つきあう男性がことごとく不幸になると言う「厄女」からの相談事をめぐる物語。「謎」と「謎解き」が日常に根ざしている点ではやや北村薫的だが、基本巻き込まれ型キャラクターの厄介くんが、解かれた謎がもたらす結果に対して「立ち向かう」構図となるのがシリーズ中では異色でもあり、キャラクターの成長もちょっと感じさせる。
 ミステリとしての謎解き部分の完成度と、解けた謎の物語的な「重さ」が両立しており、これまでのところ、シリーズ最高傑作ではないか。また、おそらく本シリーズ中ではもっとも「西尾維新」らしい作品なのだろうと思う。

■水玉 螢之丞『すごいぞ!おかあさん きいろいばらの巻』 河出書房新社
 読了(2016-10-15) ☆☆☆☆
■水玉 螢之丞『すごいぞ!おかあさん テレビのカレーの巻』 河出書房新社
 読了(2016-10-17) ☆☆☆☆

 こんな水玉作品もあったんだ! 子育て雑誌への連載マンガで、毎回決まったフォーマット(見開きでほぼ同じコマ割り、主人公の二卵性双子とおかあさんの日常から、同じお題に対してキャラクターの異なるママ友3人の家庭内の事情を窺い知る趣向)の中でほのぼのしつつ、たまに挟まる濃いネタがいかにも水玉さんらしい。

■黒木 登志夫『研究不正 - 科学者の捏造、改竄、盗用 (中公新書)』 中央公論新社
 読了(2016-10-16) ☆☆☆☆★

 第一線級の生化学研究者でもある著者が、古今東西の研究不正をパターン分類し、実例をもとに研究不正の実態、背景などなどをわかりやすく解説した大力作。さる筋からの猛プッシュで読んだが、不謹慎ながら読み物として面白すぎた。(もちろんいろいろ肝に銘じねば)
 しかし79歳でこのクオリティの著書をコンスタントに書かれている著者には頭が下がりますね。これはすごい。

■植田正治『砂丘 La Mode』 朝日新聞出版
 読了(2016-10-21) ☆☆☆☆

 ササユリカフェに『マイマイ新子と千年の魔法』&『この世界の片隅に』の原画&絵コンテ展示を観に行った帰り、西荻窪らしさ?のにじみ出る書店でみつけて購入。今年、こんな本出てたのね。
 植田正治作品の中でも、いわゆる砂丘モードの時期のしゃれたシリーズで統一されたポップな一冊。

■こうの 史代『この世界の片隅に(前編) (アクションコミックス)』 双葉社
 読了(2015-06-04) ☆☆☆☆★
■こうの 史代『この世界の片隅に(後編) (アクションコミックス)』 双葉社
 読了(2015-06-04) ☆☆☆☆☆

 11/12のアニメ版が公開される前に改めて再読。広島から呉に嫁いだすずさんの日常がいとおしくなる秀作であると同時に、各話ごとにさまざまな演出、技法、実験がもりこまれており、実験の先鋭性では唐沢なをきとタメを張れるレベル(なにしろ、1話丸ごとカルタだったり、鳥の羽ペンを自作して絵を描いたり、ほとんどを口紅で描いた回もあったりするのだ)。
 その全原画と、作中に登場する昔の道具などがまとめて展示されていた呉市美術館での展覧会が11/3まで、ということで、一念発起して鑑賞してきた。片渕監督主催の探検隊レベルではないものの、地図観ながら呉と広島の街もちょこっと歩いてきたので、作中のもろもろの位置関係もなんとなく頭に入りつつある感じ。映画の公開が楽しみ。

2016年9月に読んだ本2016年10月01日 02時50分57秒

 9月は冊数多し。とはいえ、100ページくらいの本が多いのはご愛嬌。本棚の北野勇作作品の棚卸し的な月。あと、西尾維新読むのは実は初めてだったりする。
(使ってなかったソーシャルライブラリーの日記書き出し機能を使ってみたらけっこうこの日記の作業が楽になった(笑)。ついでに転記してなかった評価点も今月から入れることにしてみた。☆五つで満点)

■北野 勇作『きつねのつき (河出文庫)』 河出書房新社
 読了(2016-09-03) ☆☆☆★

 出版時期的には大震災後でタイムリー感があった、とのことだが、なんだかわからないけど世界がいったん滅んでしまった後の市井?の生活感を描くというモチーフは北野勇作的には普遍的なテーマといえるだろう。
 本作は起こった「災害」の内容はなんとなくナウシカとかエヴァとか連想させるが、赤ん坊が子供になっていく過程を見守る父親、というあたりにはご本人の体験、心象もモチーフになっているのかもしれない。

■アルフレッド・エドガー・コッパード『天来の美酒/消えちゃった (光文社古典新訳文庫)』 光文社
 読了(2016-09-04) ☆☆☆★

 文庫で読めるコッパード。定型の枠には収まらないアイデア、展開でまさに「奇妙な味」としか呼びようがない。

■西尾 維新『掟上今日子の備忘録』 講談社
 読了(2016-09-10) ☆☆☆

 寝るごとに記憶がリセットされる忘却探偵のシリーズ第一作。短編それぞれに工夫がありつつ、ラストの謎解きにはちょっとうるっとくる仕掛けもあり、なかなか楽しめた。
(しかし、初めて読む西尾維新がこのシリーズでよいのか?)

■北野 勇作『北野勇作どうぶつ図鑑〈その1〉かめ (ハヤカワ文庫JA)』 早川書房
 読了(2016-09-11) ☆☆☆★
■北野 勇作『北野勇作どうぶつ図鑑〈その2〉とんぼ (ハヤカワ文庫JA)』 早川書房
 読了(2016-09-14) ☆☆☆★
■北野 勇作『北野勇作どうぶつ図鑑〈その3〉かえる (ハヤカワ文庫JA)』 早川書房
 読了(2016-09-17) ☆☆☆★
■北野 勇作『北野勇作どうぶつ図鑑〈その4〉ねこ (ハヤカワ文庫JA)』 早川書房
 読了(2016-09-18) ☆☆☆☆
■北野 勇作『北野勇作どうぶつ図鑑〈その5〉ざりがに (ハヤカワ文庫JA)』 早川書房
 読了(2016-09-18) ☆☆☆★
■北野 勇作『北野勇作どうぶつ図鑑〈その6〉いもり (ハヤカワ文庫JA)』 早川書房
 読了(2016-09-19) ☆☆☆★

 本棚を整理していて発掘したので一気読み。北野勇作の短編を巻ごとにテーマ(どうぶつ)を決めて全6巻で出版する。各巻の作品セレクト、装丁、付録折紙、カバー裏のジオラマまで、何という贅沢な企画だったことか。いや、楽しい楽しい。
 トピック的には、定番の「かめ」の巻は記念すべき『カメリ』デビューの巻でもある。「かえる」の巻はホラー風味(+演劇モチーフ)の短編を集めた1冊。これは著者がやっているという朗読で聴くとけっこう怖くてよいのではないかと思った。「ねこ」の巻は、昭和の映画、流行、マンガをモチーフにした切ない喪失感を描く短編3編。

■吾妻 ひでお『吾妻ひでお ベストワークス 悶々亭奇譚』 復刊ドットコム
 読了(2016-09-14) ☆☆☆★

 表題作の他、『パラレル狂室』や『みだれモコ』などを収録。読んでみると、画風的にも作風的にも統一感があって、このセレクトの手があったか、と思わせる好アンソロジー。わかりやすい例でいうと『やけくそ天使』の初期くらいの感じで、多少雑に描き飛ばしているくらいの画風が、リアルタイムで読んでいた頃には多少物足りなく感じたこともあったのだが、今読むとちょうど作風にもマッチしていたんだな、と思える。アナーキーなキャラとアナーキーなギャグの連発が今読むとかえって新鮮。

■西尾 維新『掟上今日子の推薦文』 講談社
 読了(2016-09-17) ☆☆★

 忘却探偵という設定上、その行動を記録する語り手が必要な訳だが、1冊目とは別の人物だったのが本作最大のびっくりだったかも。若手画家のパトロンの老人への殺人未遂をめぐる謎解きはミステリ的にはちょっと物足りない感じ。

■西尾 維新『掟上今日子の挑戦状』 講談社
 読了(2016-09-21) ☆☆☆★

 今回は「アリバイ」「密室」「ダイイングメッセージ」という本格ネタをちょっとメタ視点で眺めつつ、ちゃんとそれぞれのアイデアでの謎解きを入れこみ、忘却探偵の特性も生かした小味の効いた短編集。たまたま今日子さんとタッグを組んでしまった警察サイドからの視点、という点も一貫しており、テーマ、構成とも統一感のある短編集。ここまでのシリーズ中いちばん楽しめたかも。

■岸本佐知子編訳『コドモノセカイ』 河出書房新社
 読了(2016-09-25) ☆☆☆☆

 子供の世界を「無垢で無知ゆえに、残酷で理不尽で支離滅裂なもの」ととらえたコンセプトのアンソロジー、奇妙な味わいで微妙に居心地の悪い短編で一貫するの中、ラストの「七人の司書の館」でほのかな未来と希望をほのめかして〆るセレクト&構成がお見事技あり。

■西尾 維新『掟上今日子の遺言書』 講談社
 読了(2016-09-26) ☆☆☆

 1冊目の語り手厄介くん再登場。女子中学生の自殺未遂をめぐる謎解きは、本当の正解はわからない感じの描かれ方なので、ミステリ的にはちょっともやもや感が残るかなあ。このあたりは今の若者の皮膚感覚にはむしろマッチしていたりするのだろうか。
 まあ、今巻の最大のポイントは表紙イラストにもなった今日子さんのセーラー服かと(笑)。

■星 一『三十年後 (ホシヅル文庫)』 新潮社
 読了(2016-09-28) ☆☆☆

 かの有名な星一の未来予測小説。オリジナルのままだとおそらく冗長に感じられるであろうところは星新一ががんがんダイジェストしまくっているのでさくさく読める。
 まずは、ガーンズバックばりの楽天的未来予測SFとして、その発想力の豊かさが予想以上に楽しめる。楽天的すぎて、今の視点ではディストピア的に感じる要素もあるが(レム『泰平ヨンの未来学会議』あたりも連想した)、そのあたりは、むしろ今の視点で読んだ方が重層的に楽しめるかも。それにしても人を食ったラストだ(笑)。

2016年8月に読んだ本2016年09月08日 21時31分37秒

 8月は出張とか帰省とか重なって北は北海道、仙台から西は名古屋まで、個体移動距離がえらいことに。そんな中、読んだ本の冊数はちょっと少なめ。
 ともあれ、第3回となる名古屋SFシンポジウムは今回も面白かったですね。

■円城塔『バナナ剥きには最適の日』 ハヤカワ文庫JA
 宇宙探査船に搭載された人工知能の孤独をちょっとユーモラスに、ちょっと哀感をこめて描く表題作他、着想、描写ともいかにも円城塔だが、円城塔らしいなりにバラエティに富んだ短編集。円城塔入門にはこのくらいがいいのかも。

■北野勇作『カメリ』 河出文庫
 懐かしの『どうぶつ図鑑』でシリーズ開始して細々と書き継がれてきた『カメリ』シリーズが一冊に。『どろんころんど』ともつながる不安定な世界観とキャラクターがが「おもしろうてやがてかなしき」絶妙の空気感を醸し出している。

■深緑野分『オーブランの少女』 創元推理文庫
 『戦場のコックたち』がよかったので初短編集にも手を出してみた。少女を共通テーマにしつつも、ギムナジウムもの?からファンタジーまで作風の幅広さを感じさせる一冊。

■山本幸久『幸福ロケット』 ポプラ文庫
 前に読んだ、ロアルド・ダールと半村良がキーポイントの初々しい読書会?小説『幸福トラベラー』の前日譚、姉妹編としては姉の方にあたる長篇。
 こちらもまた、ダールと半村良と星新一と平井和正などなどがおおいにキーとなる『〜トラベラー』以上に初々しくて(なにしろ、こちらの主役は小学生である)ちょっとほろっとする読書会?小説だった。
 ということで『幸福トラベラー』のラストと番外編で思わせぶりに出てきたキャラクターの背景がよくわかった。なんとなく全登場人物がひととおり収まるところに収まっちゃった感じなので、このシリーズは二部作で完結、という感じなのかな。

■宋美玄、姜昌勲、NATROM、森戸やすみ、堀成美、Dr.Koala、猪熊弘子、成田崇信、畝山智香子、松本俊彦、内田良、原田実、菊池誠『各分野の専門家が伝える 子どもを守るために知っておきたいこと』 メタモル出版
 子育ての周辺に跳梁跋扈する怪しげな情報に対して、わかりやすく語りかけるように説明する。記事ごとの長さもさらっと読むのにちょうどよく、例え話も納得感がある。信者の説得にはならないだろうが、予備軍を踏みとどまらせるにはよい内容になっていると思う。広く読まれて欲しい。

2016年7月に読んだ本2016年08月02日 22時12分30秒

 今月は仕事はばたばたしている割に、月末の『カエアンの聖衣』読書会にむけてベイリー棚卸し読書。大森センセの訳文の軽妙さもあいまって、いやあ、進む進む。

■岸本佐知子『ねにもつタイプ』 ちくま文庫
 ちくま文庫から2冊出ている岸本佐知子エッセイ集と言うか奇想小噺集? 刊行順と読む順番が逆になったが、これもまた危険物(笑)だった。寝る前に寝床で読んだ1編がツボにハマって腹筋崩壊。電車の中でも寝床でも読んだら危険では、どこで読めばいいのだ(笑)。

■エラ・フランシス・サンダース『翻訳できない世界のことば』 創元社
 母国語の国民には一言で通じるけど、他の国の言葉で表現しようとすると文化背景等も含めてとても一言では伝わらないような単語を世界中から収集して紹介する異色?の絵本。日本語から選ばれているのが「ボケッと」「木漏れ日」「わびさび」となぜか「積ん読」(笑)であるあたりがちょっと身につまされる(笑)。

■バリントン・J・ベイリー『カエアンの聖衣』 ハヤカワ文庫SF
 大学1年(1983年)の初刊行時に読んで以来、33年ぶりの再読。けっこう内容忘れている感じだったが、まあとにかく面白い!
 因みに、この作品の再刊のきっかけになったという『キルラキル』は実はネットで1話分だけ観た程度です。すみません。

■バリントン・J・ベイリー『永劫回帰』 創元SF文庫
 宇宙の誕生から終わりまで、同じ出来事が無限に繰り返されているという永劫回帰の理を変えることに挑戦する主人公は、生体コンピュータとして機能する硅素骨を移植されており、それを人工チャクラとして使うことで認識を拡大されており、もともと常人以上の能力を持つ。一方別の事情から、生命維持のために宇宙船のシステムに依存してもいるのだが、そのシステムと一体化していることで、宇宙船の機能を自らの能力としても使えるという、二重三重の意味での人工的超人。
 といういかにもベイリーらしい(ワイド・スクリーン・バロックらしい)希有壮大な設定の割には、実は伏線がきっちり張られてラストにちゃんと収束していくのが、ワイド・スクリーン・バロック的にはこじんまりして感じるかもしれないけど、ベイリー作品の中ではSFとしての完成度は高いとも言えるかも。
 あと、本作はワイド・スクリーン・バロックとして見た場合、ベスターよりヴァン・ヴォクートっぽいようにも感じた。

■バリントン・J・ベイリー『スター・ウィルス』 創元SF文庫
 ベイリーの処女長篇。のっけから黒マントの宇宙海賊が暴れまくる、という設定、展開から、ちょっと松本零士のヴィジュアルで脳内再生された(笑)。
 あらくれ宇宙海賊が略奪した古代異星文明の遺産(なのかなんだかよくわからない)レンズはどうやら宇宙を内包しているらしい、というあたりはちょっとフェッセンデンの宇宙っぽかったりもするのだが、そのレンズの謎をめぐるストーリーが二転三転して最後は銀河を突破するような希有壮大な展開(なんとなく堀晃「アンドロメダ占星術」っぽい)にいたる怪作。ベイリーはやっぱり最初からベイリーだった(笑)。

■上條淳士『To-y 30th Anniversary Edition』1〜5巻 小学館
 上條淳士の原画展「LAST LIVE展」で、「LAST LIVE展」限定の前巻収納BOX目当てに大人買い(笑)。全巻とBOXにサインいただいてきました。これの前に、靖国神社脇の小さな画廊でやっていた武道館LIVEのミニ展覧会にも行ってきたんだけど、「LAST LIVE展」は画廊の壁全体を使ってあのシーンとかこのシーンとか、かゆいとことに手が届くセレクトで堪能。
 連載当初は意外と吉田まゆみっぽい雰囲気もあったり(まあ、アイドルものなので意識的だったんだろうなあ)、大友克洋の初期短編的な雰囲気もあったりして、ニューウェーブと少女マンガのいいとこどり、みたいな感じもあり。それが、To-yが音楽シーンをかけあがっていくにつれて、キャラクターも画面構成もどんどんとぎすまされていく。
 そうしてたどりついたラスト近くの展開は、今読んでも鳥肌もの。To-yを体験する作中の人々と、『To-y』という作品、上條淳士というマンガ家を体験する自分たちがシンクロしていたのを今更ながらに実感した。

■那州雪絵『超嗅覚探偵NEZ』3巻 白泉社花とゆめCOMICSスペシャル
 1巻から4年かかって出た2巻の後、また4年くらい間が空くのかと思ったら、思ったより早くコミックス出て完結。
 最終巻はなかなか驚愕の展開。こういうシビアでポリティカルな話を書けるのは那州雪絵と有川浩くらいではないか。(有川浩は那州雪絵の文庫に解説を書くほどのファンなので、あながちハズレでもないと思っている)

■バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』 創元SF文庫
 基本的なストーリーはSFロボットもの版「ピノキオ」。老職人に作られたロボットが自分探しの(というか、ロボットの自分に「意識」はあるのか、という哲学的疑問の答えを求める)旅に出て、遍歴の末に、生まれた家に戻って答えを得るまでの物語。
 なんだけど、主人公のロボット、ジャスペロダスのやることなすこと、アナーキーで破天荒。なりゆきのまま盗賊団の列車強盗の手助けをしたかと思えば、小王国をクーデターで乗っ取ったり、心を入れ替えて大帝国の中枢で働いて頭角を現したかと思えば、裏切りにあって、その腹いせのまたクーデター起こしたり。
 「人間の意識とは何か?」という命題をめぐる議論がこれでもかとぶちこまれながら、アナーキーなピカレスクロマンなので二転三転ぐいぐい読める。傑作。

■バリントン・J・ベイリー『光のロボット』 創元SF文庫
 『ロボットの魂』の後日談。世界で唯一人間と同じ「意識」をもつジャスペロダスに対して、超高度な知能を持った結果として、人間の「意識」の存在に独力で気がつき、なんとかそれを手に入れようとするロボット集団。人間とロボットの相克に、ロボットでもあり人間でもあるジャスペロダスが最後にくだす決断とは…
 2作に共通して、「ロボットは人間の命令にさからえない」という基本設定はありつつも、ロボット工学三原則は一顧だにしないアナーキーぶりが楽しい。