2017年2月に読んだ本 ― 2017年03月04日 09時00分07秒
2月はちょっと仕事が立て込み始めて読書量少なめ。
■ジャン・E. プレゲンズ『ジャンさんの「英語の頭」をつくる本―センスのいい科学論文のために』 インターメディカル
読了(2017-02-18) ☆☆☆☆
英語論文を書く初心者向けの本は学会の展示会場等でもよく売られているが、これは1999年に福岡の日本農芸化学会の会場で買ったものだったようだ。先日職場のロッカーの奥から発掘されたので、改めて読んだ。
この手の入門書によくある実例を細かく事例ごとに分類して例文と解説を列挙するようなスタイルではなく、比較文化論エッセイとして平易かつ面白く読ませつつ(なぜ、冠詞や単数複数を日本人がなかなか身につけられないか、については今までで一番わかりやすい解説だった)、必要な解説も施す、というスタイルで、古い本ではあるが、今でもしっかり役に立つ。むしろ、全くの初心者よりは、ある程度英作文のスキルをもってから、経験的にやっている使い方についての確認をするのに適しているかもれない。
■伊藤 由佳理 編著『研究するって面白い!――科学者になった11人の物語』岩波書店 (岩波ジュニア新書)
読了(2017-02-23) ☆☆☆
編者を含む11人の女流研究者が、自分が研究者になったきっかけや研究内容、その面白さについて語る。専門用語がムツカシすぎるので、もしかすると本来のターゲットの中高生にはややハードルが高いかもしれないが、いろいろな進路があり得ることを中高生に語りかける点では、こういう本が研究以外の分野でもあった方がいいかもしれない。
■寺地 はるな・飛鳥井 千砂・島本 理生・加藤 千恵・藤岡 陽子・大山 淳子『リアルプリンセス』 ポプラ社
読了(2017-02-26) ☆☆☆☆
6人の女性作家がおとぎ話に材をとってasta*に書き下ろした短編シリーズをまとめたものだが、現代社会を舞台にしたヒロインの物語に対してモチーフとしたおとぎ話をオーバーラップさせる技が作家ごと、作品ごとに異なり興味深く読める。
ポプラ社の書店配布誌(定期購読も可能)asta*はたまにあるともらってくるが、なかなか攻めた内容で、連載作品も面白く、これと同様の、複数作家に共作させる企画がいろいろあったりして面白いのだった。
■ミランダ・ジュライ『あなたを選んでくれるもの』 新潮社 (新潮クレスト・ブックス)
読了(2017-02-27) ☆☆☆☆★
たまたま、話題の映画『ラ・ラ・ランド』を観る前に、アメリカの奇妙な人生を綴るこのインタビュー集を読み始めた(始まる直前までページめくってた)けど、これが、映画に描かれるアメリカの日常と軽くオーバーラップして、けっこうハマってた。
事実は小説より奇なり、を地で行く奇妙な味のインタビュー集。何故こんな奇妙な人と出会うことができてしまうのか、やはり「スタンド使い(笑)は引かれ合う」のか(笑)。ジュライの奇妙な冒険!
また、翻訳であることを意識させずにするっと読めてしまい、なおかつ話者の性格の違いも感じさせる会話の訳がまたすごい。すごいと感じさせないのがすごい。
■ジャン・E. プレゲンズ『ジャンさんの「英語の頭」をつくる本―センスのいい科学論文のために』 インターメディカル
読了(2017-02-18) ☆☆☆☆
英語論文を書く初心者向けの本は学会の展示会場等でもよく売られているが、これは1999年に福岡の日本農芸化学会の会場で買ったものだったようだ。先日職場のロッカーの奥から発掘されたので、改めて読んだ。
この手の入門書によくある実例を細かく事例ごとに分類して例文と解説を列挙するようなスタイルではなく、比較文化論エッセイとして平易かつ面白く読ませつつ(なぜ、冠詞や単数複数を日本人がなかなか身につけられないか、については今までで一番わかりやすい解説だった)、必要な解説も施す、というスタイルで、古い本ではあるが、今でもしっかり役に立つ。むしろ、全くの初心者よりは、ある程度英作文のスキルをもってから、経験的にやっている使い方についての確認をするのに適しているかもれない。
■伊藤 由佳理 編著『研究するって面白い!――科学者になった11人の物語』岩波書店 (岩波ジュニア新書)
読了(2017-02-23) ☆☆☆
編者を含む11人の女流研究者が、自分が研究者になったきっかけや研究内容、その面白さについて語る。専門用語がムツカシすぎるので、もしかすると本来のターゲットの中高生にはややハードルが高いかもしれないが、いろいろな進路があり得ることを中高生に語りかける点では、こういう本が研究以外の分野でもあった方がいいかもしれない。
■寺地 はるな・飛鳥井 千砂・島本 理生・加藤 千恵・藤岡 陽子・大山 淳子『リアルプリンセス』 ポプラ社
読了(2017-02-26) ☆☆☆☆
6人の女性作家がおとぎ話に材をとってasta*に書き下ろした短編シリーズをまとめたものだが、現代社会を舞台にしたヒロインの物語に対してモチーフとしたおとぎ話をオーバーラップさせる技が作家ごと、作品ごとに異なり興味深く読める。
ポプラ社の書店配布誌(定期購読も可能)asta*はたまにあるともらってくるが、なかなか攻めた内容で、連載作品も面白く、これと同様の、複数作家に共作させる企画がいろいろあったりして面白いのだった。
■ミランダ・ジュライ『あなたを選んでくれるもの』 新潮社 (新潮クレスト・ブックス)
読了(2017-02-27) ☆☆☆☆★
たまたま、話題の映画『ラ・ラ・ランド』を観る前に、アメリカの奇妙な人生を綴るこのインタビュー集を読み始めた(始まる直前までページめくってた)けど、これが、映画に描かれるアメリカの日常と軽くオーバーラップして、けっこうハマってた。
事実は小説より奇なり、を地で行く奇妙な味のインタビュー集。何故こんな奇妙な人と出会うことができてしまうのか、やはり「スタンド使い(笑)は引かれ合う」のか(笑)。ジュライの奇妙な冒険!
また、翻訳であることを意識させずにするっと読めてしまい、なおかつ話者の性格の違いも感じさせる会話の訳がまたすごい。すごいと感じさせないのがすごい。
【ネタバレあり】少女マンガとしての『この世界の片隅に』 ― 2017年03月14日 07時44分43秒
古典的な少女マンガで好んで使われたシチュエーションとして、「あの時の男の子」というのがあると思う。ヒロインが幼い頃に出会っていた少年と、後に再会し、紆余曲折あって、最後は結ばれる、というものだが、りぼんの乙女チック路線の代表マンガ家の一人である太刀掛秀子の作品にもよく使われたし、より広く知られたものとしては『キャンディキャンディ』があるだろう。
太刀掛秀子『花ぶらんこゆれて』と『キャンディキャンディ』の共通点としては、ヒロインの幼少期に出会った(泣いていたところを慰めてくれた)男の子と、ヒロインの側はその正体を知らないまま再会し、途中紆余曲折するものの、最後は、出会った時のシチュエーションを想起させるような形で二人が結ばれる、という基本構成があるだろう。
時代が下ると、近藤喜文監督作品『耳をすませば』の原作者である柊あおいの代表作『星の瞳のシルエット』も、この「あの時の男の子」フォーマットを踏襲しているが、「出会ったところで泣いていたのが男の子の方だった」など、過去作品との差別化のため?のアレンジが随所にみられた。
さて、そういった少女マンガの定番フォーマットを意識したものだったのかどうかは不明だが、『この世界の片隅に』では、すずさんが幼い頃、「冬の記憶」において周作と運命的な出会いをしている。ばけもんにさらわれそうになるが、からくも逃れる、というシチュエーションが今ひとつロマンチックではないが(笑)、ともあれ二人は出会った。
その時の記憶だけを頼りにすずさんに縁談を申し込んだのは周作の方だが、よくよく考えてみると、この周作の思考回路はけっこう乙女チックかもしれない(笑)。他にも、リンとの関係や、りんどうの茶碗あたりからしても、なかなかに恋愛体質(笑)であることがうかがわれるではないか。リンとの結婚を反対された周作が「だったら、子供の頃、広島で会った女の子と結婚したい」なんて言い出すのも、よく考えるまでもなく無茶な話で、その思考回路もなんだか乙女っぽい(笑)。(その無理難題を冷静にクリアしてしまった円太郎父さんの調査能力恐るべし、である(笑))
さて、普通の少女マンガの展開なら、後年偶然知り合った男性が「あの時の男の子」であることをヒロインの側はしばらくの間は気づかないまま、それでも恋愛感情が生まれ、深まっていくのだが、すずさんの場合は、単にぼーっとしている(笑)ので思い出せない。周作の方も、「どこかで先に会いましたか?」と聞かれながら、そこで明かしてもいいのに、ほくろの話しかしない。
少女マンガ的には、「あの時」のことは男性の側は最初から、あるいはヒロインが気づくよりはずいぶん前から気づいているのが一般的で、ヒロインには言わないまま関係を深めるような努力をしていることもままある。このあたりは、フォーマットは異なるものの、先にタイトルを挙げた『耳をすませば』で聖司くんが図書カードに自分の名前を仕込んでいるという涙ぐましい努力とも多少通じるところはあるかもしれない。
ここで、すずさんと周作の関係がいきなり結婚から始まるのは「あの時の男の子」フォーマットとしては変化球的だが、時代背景を考えれば、いきなり縁談から関係が始まる『はいからさんが通る』のようなもの、ということで、まあいいかな。現代でも、契約結婚してから「恋」を育むマンガもあることだし(笑)。
因みに、すずさんの場合は、哲という、すずさんを意識しまくっていた幼なじみがいるあたりも設定的にはちょっと少女マンガ要素ではある。このあたりのすずさんと哲、リンと周作の関係などが、いろいろ生々しくて昼ドラっぽい感じもするあたりは、原作の媒体が青年誌なのでまあいいだろう。それでも、哲も含めて、恋愛に関してはピュアな想いをそれぞれに持っている感じはすると思う。
「あの時の男の子」フォーマットの観点でも、ヒロインの恋愛模様は紆余曲折あって読者にもどかしい想いをさせるのは仕様(笑)であろう。
そうしてラスト、ついに「あの時の男の子」であることが明かされ、想いを確かめあうシークエンスでは、「想い出の場所」「想い出のアイテム」「想い出の会話」など、「あの時」を想起させるものが提示される。『花ぶらんこゆれて』なら花ぶらんこの花、『キャンディキャンディ』なら当時のセリフ(民族衣装とバグパイプまでそろえたのはアニメ版だったようだ)、『星の瞳のシルエット』ならすすき野原と星のかけらなどがクライマックスを演出している。
すずさんと周作の場合は、「相生橋」で「ばけもん」で「キャラメル」がキーアイテムといえるが、待ち合わせ場所に産業奨励館跡を選び、相生橋の上で「二人の出会い」を語るあたりは、周作の意志が感じられる。そこですずさんが「ありがとう。この世界の片隅に…」を語りかけるのは、紆余曲折あってたどりついた二人の関係を象徴している。そこに登場する「ばけもん」はいささか乙女チック感には欠けるが、すずさんが周作と間違えて「ばけもん」の手を握ってしまうというオチをつける原作に比べ、想いを確かめあう二人を祝福するかのように、「ばけもん」が後ろを通り過ぎ、背負いかごからワニが顔をみせるアニメ版の方が、演出的にはロマンチックで少女マンガ寄りのように思う。
原作でもアニメ版でも、二人がそのばけもんについて何かをいうことはないが、すずさん視点では、周作が「あの時の男の子」であったことをここで確認したのは間違いないだろう。
さて、アニメ版『この世界の片隅に』が原作と比べ、すずさんの少女性を強調している、という点は随所で語られているが、そのことによって、原作がもともと持っていた少女マンガ的な要素がよりクローズアップされたように思う。
例えば、前述の「キャラメル」については、原作の「冬の記憶」ではすずさんが買ったキャラメルは作中に登場しないが、アニメ版では買ってきたキャラメルの箱のにおいをかぐという描写があり、後に周作が江波を訪ねて来た際には、誰かはわからないのにキャラメルのにおいをすずさんが思い出す、というあたりは、やはり少女マンガ要素を強調する効果があると言っていいだろう。
また、アニメ版では江波を訪ねた円太郎と周作が「親切な水兵さん」と出会ったことになっている。ここで哲がわざと間違った道を教えたのでは、という疑惑がネットで語られることがあるが、そのことの真偽はさておき、すずさんをめぐる三角関係のライバルをあらかじめ対面させておくあたりも恋愛要素としては効いているだろう。
そして何より、アニメ版では周作とリンの関係に関する描写がそっくり割愛されているため(もちろん、そのことを暗示するアイテムは随所に登場するのだが)、すずさんと周作の関係によりフォーカスが寄った作品となっている。呉の焼跡で周作を見送るシーンでも、原作では朝日遊郭跡を自分で確かめるよう促す周作のセリフが、アニメ版では、必ずすずさんのところに帰ってくる、という周作の意思表示になっている点も(絵コンテでは原作通りの台詞だったので、尺の関係による変更だろう)、同様の効果をもたらしているように思う。
ということで、アニメ版よりは「青年マンガ」寄りの原作『この世界の片隅に』だが、こうの史代先生の絵柄はご本人が昔の少年マンガをよく読まれていたとのことで、なんとなく懐かしさを感じさせる。
そう思っていたところに、先日、かつてりぼんで活躍された千明初美先生の作品集『ちひろのお城』が復刊された。当時のりぼんといえば、流麗なタッチの一条ゆかり、乙女チック御三家の陸奥A子、田渕由美子、太刀掛秀子などの絵柄が乱舞する中、ちょっと石森章太郎を思わせる少年マンガ的なキャラクターはちょっと異色ではあった。とはいえ、そういうキャラクターだからこそ、か、流れるようなきれいなペンタッチとも合わせ、今読んでも古びていないのは再読して驚きだった。昔の少年マンガの影響を受けた絵柄、という点では、こうの先生の画風とも多少親戚関係にあるように思う。
千明初美作品のテーマは、恋愛より家庭内の家族間の葛藤や新任のクラスをまとめようと奮戦する教師など、日常に立脚した作品が多かったのだが、その日常は、当時の読者からみて「現代」もしくは「ちょっとだけ昔」、昭和30年代から40年代の、まだ田舎では井戸が使われていたり、やぶれた服にアップリケをあてて使うような描写が散見され、今読むと、『この世界の片隅に』の昭和20年前後の日常との地続き感が強く感じられる。
せっかく復刊されたことでもあり、こうの作品のファンの方にちょっとオススメしたい少女マンガだと思う。
太刀掛秀子『花ぶらんこゆれて』と『キャンディキャンディ』の共通点としては、ヒロインの幼少期に出会った(泣いていたところを慰めてくれた)男の子と、ヒロインの側はその正体を知らないまま再会し、途中紆余曲折するものの、最後は、出会った時のシチュエーションを想起させるような形で二人が結ばれる、という基本構成があるだろう。
時代が下ると、近藤喜文監督作品『耳をすませば』の原作者である柊あおいの代表作『星の瞳のシルエット』も、この「あの時の男の子」フォーマットを踏襲しているが、「出会ったところで泣いていたのが男の子の方だった」など、過去作品との差別化のため?のアレンジが随所にみられた。
さて、そういった少女マンガの定番フォーマットを意識したものだったのかどうかは不明だが、『この世界の片隅に』では、すずさんが幼い頃、「冬の記憶」において周作と運命的な出会いをしている。ばけもんにさらわれそうになるが、からくも逃れる、というシチュエーションが今ひとつロマンチックではないが(笑)、ともあれ二人は出会った。
その時の記憶だけを頼りにすずさんに縁談を申し込んだのは周作の方だが、よくよく考えてみると、この周作の思考回路はけっこう乙女チックかもしれない(笑)。他にも、リンとの関係や、りんどうの茶碗あたりからしても、なかなかに恋愛体質(笑)であることがうかがわれるではないか。リンとの結婚を反対された周作が「だったら、子供の頃、広島で会った女の子と結婚したい」なんて言い出すのも、よく考えるまでもなく無茶な話で、その思考回路もなんだか乙女っぽい(笑)。(その無理難題を冷静にクリアしてしまった円太郎父さんの調査能力恐るべし、である(笑))
さて、普通の少女マンガの展開なら、後年偶然知り合った男性が「あの時の男の子」であることをヒロインの側はしばらくの間は気づかないまま、それでも恋愛感情が生まれ、深まっていくのだが、すずさんの場合は、単にぼーっとしている(笑)ので思い出せない。周作の方も、「どこかで先に会いましたか?」と聞かれながら、そこで明かしてもいいのに、ほくろの話しかしない。
少女マンガ的には、「あの時」のことは男性の側は最初から、あるいはヒロインが気づくよりはずいぶん前から気づいているのが一般的で、ヒロインには言わないまま関係を深めるような努力をしていることもままある。このあたりは、フォーマットは異なるものの、先にタイトルを挙げた『耳をすませば』で聖司くんが図書カードに自分の名前を仕込んでいるという涙ぐましい努力とも多少通じるところはあるかもしれない。
ここで、すずさんと周作の関係がいきなり結婚から始まるのは「あの時の男の子」フォーマットとしては変化球的だが、時代背景を考えれば、いきなり縁談から関係が始まる『はいからさんが通る』のようなもの、ということで、まあいいかな。現代でも、契約結婚してから「恋」を育むマンガもあることだし(笑)。
因みに、すずさんの場合は、哲という、すずさんを意識しまくっていた幼なじみがいるあたりも設定的にはちょっと少女マンガ要素ではある。このあたりのすずさんと哲、リンと周作の関係などが、いろいろ生々しくて昼ドラっぽい感じもするあたりは、原作の媒体が青年誌なのでまあいいだろう。それでも、哲も含めて、恋愛に関してはピュアな想いをそれぞれに持っている感じはすると思う。
「あの時の男の子」フォーマットの観点でも、ヒロインの恋愛模様は紆余曲折あって読者にもどかしい想いをさせるのは仕様(笑)であろう。
そうしてラスト、ついに「あの時の男の子」であることが明かされ、想いを確かめあうシークエンスでは、「想い出の場所」「想い出のアイテム」「想い出の会話」など、「あの時」を想起させるものが提示される。『花ぶらんこゆれて』なら花ぶらんこの花、『キャンディキャンディ』なら当時のセリフ(民族衣装とバグパイプまでそろえたのはアニメ版だったようだ)、『星の瞳のシルエット』ならすすき野原と星のかけらなどがクライマックスを演出している。
すずさんと周作の場合は、「相生橋」で「ばけもん」で「キャラメル」がキーアイテムといえるが、待ち合わせ場所に産業奨励館跡を選び、相生橋の上で「二人の出会い」を語るあたりは、周作の意志が感じられる。そこですずさんが「ありがとう。この世界の片隅に…」を語りかけるのは、紆余曲折あってたどりついた二人の関係を象徴している。そこに登場する「ばけもん」はいささか乙女チック感には欠けるが、すずさんが周作と間違えて「ばけもん」の手を握ってしまうというオチをつける原作に比べ、想いを確かめあう二人を祝福するかのように、「ばけもん」が後ろを通り過ぎ、背負いかごからワニが顔をみせるアニメ版の方が、演出的にはロマンチックで少女マンガ寄りのように思う。
原作でもアニメ版でも、二人がそのばけもんについて何かをいうことはないが、すずさん視点では、周作が「あの時の男の子」であったことをここで確認したのは間違いないだろう。
さて、アニメ版『この世界の片隅に』が原作と比べ、すずさんの少女性を強調している、という点は随所で語られているが、そのことによって、原作がもともと持っていた少女マンガ的な要素がよりクローズアップされたように思う。
例えば、前述の「キャラメル」については、原作の「冬の記憶」ではすずさんが買ったキャラメルは作中に登場しないが、アニメ版では買ってきたキャラメルの箱のにおいをかぐという描写があり、後に周作が江波を訪ねて来た際には、誰かはわからないのにキャラメルのにおいをすずさんが思い出す、というあたりは、やはり少女マンガ要素を強調する効果があると言っていいだろう。
また、アニメ版では江波を訪ねた円太郎と周作が「親切な水兵さん」と出会ったことになっている。ここで哲がわざと間違った道を教えたのでは、という疑惑がネットで語られることがあるが、そのことの真偽はさておき、すずさんをめぐる三角関係のライバルをあらかじめ対面させておくあたりも恋愛要素としては効いているだろう。
そして何より、アニメ版では周作とリンの関係に関する描写がそっくり割愛されているため(もちろん、そのことを暗示するアイテムは随所に登場するのだが)、すずさんと周作の関係によりフォーカスが寄った作品となっている。呉の焼跡で周作を見送るシーンでも、原作では朝日遊郭跡を自分で確かめるよう促す周作のセリフが、アニメ版では、必ずすずさんのところに帰ってくる、という周作の意思表示になっている点も(絵コンテでは原作通りの台詞だったので、尺の関係による変更だろう)、同様の効果をもたらしているように思う。
ということで、アニメ版よりは「青年マンガ」寄りの原作『この世界の片隅に』だが、こうの史代先生の絵柄はご本人が昔の少年マンガをよく読まれていたとのことで、なんとなく懐かしさを感じさせる。
そう思っていたところに、先日、かつてりぼんで活躍された千明初美先生の作品集『ちひろのお城』が復刊された。当時のりぼんといえば、流麗なタッチの一条ゆかり、乙女チック御三家の陸奥A子、田渕由美子、太刀掛秀子などの絵柄が乱舞する中、ちょっと石森章太郎を思わせる少年マンガ的なキャラクターはちょっと異色ではあった。とはいえ、そういうキャラクターだからこそ、か、流れるようなきれいなペンタッチとも合わせ、今読んでも古びていないのは再読して驚きだった。昔の少年マンガの影響を受けた絵柄、という点では、こうの先生の画風とも多少親戚関係にあるように思う。
千明初美作品のテーマは、恋愛より家庭内の家族間の葛藤や新任のクラスをまとめようと奮戦する教師など、日常に立脚した作品が多かったのだが、その日常は、当時の読者からみて「現代」もしくは「ちょっとだけ昔」、昭和30年代から40年代の、まだ田舎では井戸が使われていたり、やぶれた服にアップリケをあてて使うような描写が散見され、今読むと、『この世界の片隅に』の昭和20年前後の日常との地続き感が強く感じられる。
せっかく復刊されたことでもあり、こうの作品のファンの方にちょっとオススメしたい少女マンガだと思う。
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