片渕須直監督トークショー@大和ミュージアム(『この世界の片隅に』)2017年04月16日 08時06分37秒

 4/8(土)に呉の大和ミュージアムで開催された片渕須直監督のトークショー、珍しくメモを取りながらしっかり聞いたので、簡単にレポートしてみます。テープ起こしとかではなく、監督のしゃべりを再現しきれないので、文章はこなれてないままなのはご容赦を。

■<「マイマイ新子探検隊」と「この世界の片隅に探検隊」について>
◇前作『マイマイ新子と千年の魔法』公開前の2009年8月に防府の小学校で、映画の舞台をめぐる初めての「マイマイ新子探検隊」が行なわれた。片渕監督も参加したかったが、日程が『マイマイ新子〜』世界初公開となったロカルノ映画祭と重なっていたため断念。そこで(?)2回目からは探検隊を大人でのっとろうか、ということになった。
◇『この世界の片隅に』の映画を作ろう、とおもったのは2010年8月ごろ。
◇2011年5月に初めて広島へ。その際集まった人たちが今回のトークショー&スタンプラリーの実行委員の元になった。
◇広島では毎年「ここまで出来ています」という報告をしてきたが、7年越しになってしまった。

■「この世界の片隅に」を支援する呉・広島の会あいさつ等
◇会長の大年さんからあいさつ。
 この映画の成功を確信したのは、パイロットフィルムを観たときと、公開半年前に監督から「今までにない画期的なものになる」という自信の発言を読んだときだった。
◇さらに、片渕監督への記念品贈呈。
 千幅の大吟醸に「提督」ラベルがあるが、今回は特別に「監督」ラベルのボトルを贈呈(いっしょに地サイダーの「監督」ラベルも)。みなさん、この「監督」の文字を見てなにか気づきませんか?
→こうの史代先生の手になる「監督」ラベルでした。

■<今回のスタンプラリーについて>
◇「この世界の片隅に探検隊」の第1回はYouTubeに動画があがっている。実は第0回は「マイマイ新子探検隊」の後、有志でそのまま呉で探検隊をした。
◇今回のスタンプラリーはもともと「この世界の片隅に探検隊」のために日程を確保してあったのだが、映画がヒットしてしまい、今やったら人が集まりすぎて大変なことになるだろう、ということで、片渕監督がいっしょに回る探検隊ではなくスタンプラリーという形式にしてみた。(ほとぼりがさめたら探検隊もやりたい)
◇今日のトークショーは、片渕監督が引率できないので、スタンプラリーで回る場所についての解説をメインに。

■<呉の成り立ちと町割り>
◇(今日も雨模様でガスっているが)呉の気候は海沿いというより高原に近いように思う。
◇明治20年に海軍が来ることになった。それまでは湿地帯だった。埋め立てて町割りをしたが、この時、碁盤の目状の町割りが計画された。『マイマイ新子〜』の防府も都として碁盤の目になっているが、防府も呉も町の幅が一町(約110m)になっているのは偶然だが面白い。
◇(縦の通りは)最初に本通(眼鏡橋の前の通り)を作ったが、これを計画より狭い幅に作ってしまった。他の通りは本通より狭く作ることになっていたので、さらに狭くなったが、このため、あとあと困ることになったようだ。
◇(横の通りは)呉駅から山側に向かって順に一丁目、二丁目〜となっていてわかりやすい(今は番地が変わっているが、片渕監督は古い番地で覚えてしまっている)。昔は市電が通っていた三丁目が一番広い通りで他の通りは今より狭かったが、現在、三丁目にかかっている堺橋が当時のままであり、それで通りの広さも同じ。今は後から拡張した二丁目の方が広い通りになっている。
◇堺橋からの市電が本通で曲がっているところが四ツ道路。
◇(当時の呉の町の写真を示しながら)当時の写真は軍の検閲で呉市内の山の稜線が消されている。地図でも、軍事施設の部分は白紙になっている。

■<眼鏡橋界隈>
◇(Googleマップを示しながら)本通は眼鏡橋に通じているが、JRの高架から向う(旧下士官兵集会所方面)は昔のままの道幅になっている。今の本通は戦後拡張されて広くなっている。
◇昔の眼鏡橋界隈を写した写真(昭和10年11月)に、呉−三原間開通記念絵葉書がある。JRの高架の鉄橋はこの写真に写っているものが今もそのまま使われている。建物だけでなく、こういった写真の細部に映っているバスやタクシーの看板、通行人の服装等が当時を知る手がかりとなる。
◇「眼鏡橋」はこのJRの鉄橋のことではなく、鉄橋から旧下士官兵集会所の間に河があり、今は暗渠になっている。

■<呉の町の広がり>
◇呉の町はもともとの町割りの埋め立て地から山側に広がっていった。
◇北條家はその広がった呉の一番隅に位置している。すずさんは広島でも隅の方の江波に住んでいた。すずさんは「少し離れたところからものを見ていた人」。
◇呉の町は一丁目から九丁目までは碁盤の目になっている。十丁目、十一丁目あたりは曲がっている。
◇昭和10年頃は呉市電は広まで通じていなかった。当時の終点は遊郭のある朝日町。広までは乗り換えが必要だったが、これは広への山越えをするためにパワーのある別の電車が必要だったため。市電が広まで通じてからは十三丁目が遊郭の最寄駅となった。十四丁目にラリーのポイントである千幅の工場がある。
◇五丁目から九丁目あたりがいわゆる「れんが通り」(すずさんと周作さんがデートした通り)。

■<ここでうっかり!?>
◇ところで、うっかりしてましたがこの中に映画まだ観てない人いますか?
→大丈夫でした(笑)。

■<本通と市電>
◇「白いすずさん」が歩いているのは本通七丁目(映画では市電とすれ違うあたり)。ここにあったのが原作では(晴美ちゃんの入学用品の)買い物で出てきた福屋百貨店だった。
◇福屋百貨店は広島にもある(すずさんがスケッチしている)が、広島の次には呉にできた。
◇本通は眼鏡橋まで通じているので、ここですずさんはまっすぐ歩いただけ(この前に迷ったので、まっすぐくればいいように周作さんが電話で指示したかも?)。
◇(絵コンテのシーン637)この時の市電の電車は…(といいながらPhotoshop起動)
◇(その前のシーン636が表示されたので)すずさんがおしろいをはたいているシーンのレイヤーをちょい見せ(動かすためのパーツの分割を図解)。
◇さらにシーン637の市電と白いすずさんのシーンのレイヤーもちょい見せ。
◇(市電の話に戻って)この時の呉市電がストリートビューで見ると呉市内のある場所にあります(屋根を載せたりして倉庫になっている)。
→監督はまだ読まれてなかったようですが、倉庫として活用されているこの市電車両の話は「旅と鉄道」5月号でレポートされています。

■<福屋百貨店の今昔>
◇当時の福屋百貨店の場所は今は道路に(先に述べた戦後、拡張された部分にあたる)、ただし、建物は道路拡張以前に空襲ですでになくなっていた。
◇原作では昭和20年3月にこの福屋に買い物にくる描写があるが、福屋はその時期、広島でも呉でも営業はしておらず、店舗はさまざまな事務所等として使われていた。
◇映画の該当のシーンでは、市電のバックにある建物は百貨店の看板が外されている(因みにこの建物は福屋百貨店として建てられたものではなく、福屋になる前に2回くらい別の店として営業していたもの)。
◇モガ時代の径子さんが歩いているシーンで幼い周作さんが覗き込んでいるショーウィンドウがこの福屋で、径子さんの前の建物は正法地帽子店。
◇白いすずさんのシーンは径子さんのシーンと構図がほぼ90度の関係。ここでも営業していない福屋の向かいには「正法地帽子店」が描かれている。
→お話聞いて「すごい!」と思ったら、あとで見返したロケ地マップにはこの位置関係がしっかり描かれてました。さすが! というか細かすぎる(笑)。

■<花開いていた日本・自らを閉ざした日本>
◇因みに、営業していた福屋百貨店の店名の看板の下にはライトがあり、昭和15年には看板がライトアップ(!)されていた(該当のシーンは昼間だが、ライトはちゃんと描いてある)。
◇本通にはいわゆる「すずらん灯」があった。映画冒頭の中島本町にも「すずらん灯」がある。全国で「すずらん通り」という名前が残っている場所は、同様のすずらん灯があった通りで、呉では本通、中通にあった。これらは昭和16年の金属供出で姿を消した。
◇すずらん灯の写っている写真を見ると、電灯の上に光っている曲線が映っている。藤田画伯が当時の呉を描いた絵を見るとすずらん灯に赤い線が描かれており、光っていたのは赤いネオンだったことがわかる。
◇映画冒頭の中島本町でもレコード屋の「コロンビア」の看板は夜になると光る(点灯している写真あり)。映画は昼だが、横から描かれている看板は厚みがあり、この中には電球が入っている。
◇昭和11年の広島商業学校のレポートで、看板の文字の右書き、左書きや照明、ネオンサインなどを調査したものがある。因みに結論は「赤だけのネオンサインはださい(意訳)」というもので、既にカラフルなネオンサインが登場していたことが伺われる。
◇中島本町のレコード屋やヒコーキ堂(おもちゃ屋)は建物疎開でなくなった。
◇こうしてみると、昭和10年代の日本では、カラフルな電飾もあり今に通じるものがある。日本は戦後花開いたのではなく、一度花開いていたのを、自ら閉ざした。
(すずさんも小学校のころはいていたスカートがはけなくなっていった)

■<海軍の機密!?>
◇ここで、すずさんと周作さんのデートシーンの絵コンテをPCで探している中、映画にないシーンの絵コンテ(絵コンテ集にも未収録。上記のシーン近く、といえばどのシーンかわかりますね)が画面にうつってしまい、「見なかったことにしてください」と監督(笑)。

■<下士官兵集会所>
◇海軍の土地は下士官兵集会所の向うから(下士官兵集会所には家族も出入りしていたため)。
◇入口の写真を見ると「販売所?」の文字を外した跡がある。ここをマーケットにする(した?)が住民の反対運動があった。今で言えばイオンの進出に反対するようなものか。写真を見ると、兵の家族以外の一般の人も出入りしていたのかもしれない。
◇戦後の写真を見ると下士官兵集会所は白黒で迷彩塗装されている。

■<眼鏡橋界隈>
◇眼鏡橋の前の海軍入口の門の写真を見ると、ある時期から門が広くなっている。住民が集まるイベントがあった際に、狭い門に人が押し寄せて圧死する人が出たことがあり、それ以降広くしたらしい。
◇眼鏡橋は、当時の写真を見ると、眼鏡と言ってもアーチは一つしかなく片眼鏡だったようだ。

■<繁華街と映画館>
◇中通に紀伊国屋があったが、写真は南京陥落時のネオンだらけのものしかなく、戦中どうだったかがわからなかったので映画には登場させていない。
◇映画に出てくる映画館「地球館」「喜楽館」は実在。「地球館」は当時の中通八丁目で、その場所は今はカラオケ屋の前にある駐車場になっている。
◇水兵さんたちが上陸している桟橋は今のフェリー乗り場。この会場(大和ミュージアム)のすぐそば。

■<小春橋で水道管マニア狂喜!?>
◇デートの後の小春橋のシーンで、二人のいる小春橋の後ろの橋は堺橋なので市電が走っている。堺橋のたもとには消防署があり、ランドマークの櫓がある。
◇市電のレールは少し前に二河橋から当時のものがでてきた。あれは埋め戻したと思いますが…(ここで、「撤去したそうです」と事務局の方から補足あり)…あ、そうなんですか、もったいないなあ。
◇消防署の前に警察署があり、空襲時に燃える警察署に消火活動している写真がある。この時放水しているのは15歳くらいの少年消防士だった。
◇焼け跡の写真に当時の小春橋が写っているが全体の形がわからない。いくつか写真を探して橋の形を割り出した。
◇写真を見ると、小春橋のところには水道橋が通っていたが、細かい形状がわからない(中央には突起のようなものがある)。周辺を調べると今も水道橋が残っているところがあり、それを参考にした。突起は空気抜きのバルブだった。
◇このバルブを映画に描いたところ、水道マニアの方が熱狂したらしい。

■<呉はスクラップ&ビルドの町>
◇ラストシーンのマーケットは中通。ここはちょうどデートの時に映画館があった場所。
◇米軍の残飯雑炊で「UMA〜」していた闇市は四つ道路のあたり。今は駐車場になっている。
◇下士官兵集会所に使われていたスクラッチタイルは呉の海岸沿いのあたりにまだ残っているところがある。
→スクラッチタイルは現在の青山クラブでも、屋上付近に一部残っているので注意してみるとみつかる。監督は映画の下士官兵集会所の参考にしたかもしれない(某呉市学芸員さんの談)。
◇広島と呉を比べてみると、広島は城下町だったので、昔からのものが残っている場所が今でもあるが、呉はもともと明治以降の町で、スクラップ&ビルドを繰り返してきた町といえるかもしれない。
◇(建物疎開後の航空写真を示しながら)黒村時計店は市電の角あたりにあったと想定している(周作さんが建物疎開を目撃したのは本通)。
→この写真は解像度が高く、拡大すると遊郭の門の前の貯水池もはっきり見て取れるものでした。

■<Q&A:伝単について>
◇(一覧表を示しながら)米軍では全ての空襲で何が使われたか、記録に残されている。「パンプキン」とあるのは模擬原爆。呉への空襲には、米軍が使った爆弾のうち原爆とパンプキン以外は全て使われている。伝単の記録もあり、これは「リーフレット心理作戦」と記載されているもの。
◇このうち、8/9に使用された記録があるのがAB-11リーフレット(ABはアトミックボムの略)。原作の伝単はそれより古いもの。
◇呉から江田島にかけては3機のB-29で伝単をまいたと記録にある。伝単に3機というのは多く、おそらく海軍兵学校向けだったと思われる(原作でも、伝単がまかれているシーンでは江田島方向に飛ぶ3機のB-29が描かれている)。
◇すずさんは伝単の前に呉から出ようとしていた。そこに「都市から退避せよ」〜町から出よ〜という伝単を読んだことで、(じゃあ逆に出るものか、と)意地になってしまった側面もあったかもしれない。

■<Q&A:リンさんの出番が少ないのですが>
◇察してください(笑)。

■<Q&A:建物の迷彩がおもに白黒で行なわれている意図は?>
◇白黒なのは、当時もう塗料が不足していたためで、白の塗料くらいしかなかった。黒はタールを使っていた。軍の消防車はカーキ色だった。
◇当時の国会議事堂の写真を見ても、白黒に塗り分けられている。白黒をまだらに塗った民家と違い、街中の建物は白黒のモザイク的に迷彩していた。当時の東京駅近郊でも例がある。
◇迷彩の意図としては、建物のシルエットが実際より小さく見える効果はあったと思われる。
◇先にも示した通り、下士官兵集会所も白黒で迷彩塗装されていた。
◇呉駅の迷彩は写真がなかった。
◇広島駅も迷彩されていたようだが、被爆後の写真ではもともとの迷彩なのか火災で燃えたのかわからない。タールを塗っていたところは燃えやすかったかもしれない。

■<Q&A:すずさんと晴美ちゃんが空襲後に歩き始めた方向が駅と逆では>
◇軍艦を見に行ったのであの方向に。
◇(空襲後の写真を示しながら)場所は宮原のあたり。写真ではちょうど塀がなくなっている箇所がある。
◇空襲の後、軍からは速やかに消防車の出動要請が出ており、宮原からも消防車が向かっていた。

※当日のメモを元に、なるべく確認しながら書いてみましたが、間違っていたなら教えてください。今のうちに。