母の見た戦争2017年02月18日 15時34分57秒

 年末に、84歳の父と80歳の母を『この世界の片隅に』に連れて行ってみた。母の方は、映画が始まってからちょっとの間、うとうとしてるようだったので、ちゃんと観れているか心配だったのだが、観終えたら、「いい映画に連れてきてくれてありがとう」と、言ってもらえたので、ちょっと安心した。

 その後、映画公開後よく聞いた「老親に『この世界の片隅に』を見せたら昔のことを語り出した」という現象が当家においてもみられ、初めて聞くような話がいろいろと聞けたので、自分が忘れてしまう前に備忘録として記しておこうと思う。

 母は山形市内の生まれで、昭和11年生まれ、終戦時は小学3年生だったという。生家は山形駅から徒歩15〜20分くらいの距離だが、昭和40年代にも「ニッポンの普通の田舎」という感じで、自分の覚えている母の実家は土壁の昔風の家屋だった。わりと細長い土地で、道路に面した一角は別の家が建っており、奥に入っていくと家屋があり、裏手にちょっとした畑と、その一角に昔風のお便所があった(このお便所は子供心にもちょっとこわかった)。

 母から今回初めて聞いた話でまず驚いたのは、道路側の別のお宅の土地も含め、全体を昔は祖父が借りており、戦時中はそのお宅のあるあたりの土地に防空壕を掘っていた、ということであった(その後、土地を買う時に持ち主が分かれたとか)。
 「防空壕に入った」という話は子供の頃に聞かないではなかったが、具体的な場所やその後の経緯等は聞いたことがなかったので、ちょっと驚いた。
 祖父は漆職人で、当時の実家の2階には祖父の仕事部屋があったが、自分が物心ついた頃は仕事はしていなかった。たまに2階を見せてもらうと、仕事道具やあちこちにこびりついた漆があったのを覚えている。

 裏手の畑は、あまり使われていない感じで、その後建て替えられる際(自分が小学3年生の時だったと思う)にはそちらまで使った新しい大きな木造家屋になったのだったが、かつては映画の北條家のように野菜等を育てていたのだろう。北條家の段々畑と比べればずっと狭い畑で、祖父母と5人の兄弟姉妹には足りなかったのではなかろうか(因みに母は末っ子で、この5人の他にもあと何人か幼くして/若くして亡くなった兄弟はいたらしい)。当時、戦中から戦後にかけて子供たちも苦労したという話は、数年前に母方のお墓参りの後、伯母(母の亡兄の奥様)から昔の伯父たちの体験にまつわる話として少し耳にしたりした。
 母からこれまでにも、「戦時中はとにかく食べるものがなかった」とはよく聞いていたが、食に関する話でも、今回初めて聞いた話があった。戦時中のある時、祖母が「かて飯」を炊いておいたところ、盗難に遭ったとか。「かて飯」といっても、普通はお米以外の雑穀や大根飯、あるいは映画にあったようなサツマイモを混ぜたものが想起されると思うのだが、その盗まれた「かて飯」はお米にお茶がらを入れたもので、盗まれた後のお釜は、きれいにお米のご飯だけをとりわけて、お茶がらは残っていたということである。

 山形市内は幸い空襲には遭わずにすんだとのことだが、「神町の飛行場が空襲に遭ったときは家からもその炎で空が赤くなっているのが見えた」とのこと。資料によると、8月9日の出来事だったようだ。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000188488

http://mt1985.cocolog-nifty.com/naval_strike/2013/05/89-am-vf-9422-0.html

 リンク先に書かれていたように、山形市は「数少ない非戦災都市」ではあったようだが、学童疎開は行なわれていたようで、母も祖母の親戚の家から学校に通うことになったとか。親戚の方々にはかわいがってもらって、特にいやなことがあったわけではなかったのだが、なんでも、祖母と離れているのが淋しくて耐えられず、途中から実家に戻ってしまい、朝早くに疎開先のお宅まで歩いていってお弁当をもらい、そこから学校へ通い、帰りも同じようにして、実家まで帰る、という生活をちょっとの間していたらしい。これは今回初めて聞いた話の中でも特に驚いたエピソードだった。
 そんなことをしていたので、小学3年生の女の子にとってはあまりにも通学で歩く距離が長く、疲れがたまり、ほどなく熱を出して寝込んでしまったとか。それで寝込んでいるうちに玉音放送があって、終戦は疎開先ではなく実家で迎えた、ということである。
 実は自分も、子供の頃その母の実家に帰省するのが楽しくて、休みが終わって帰る時は淋しくなって「もっといたい」とか思いながらも、小学5年生の時だったと思うが、一人で実家に泊めてもらう、という生活をしてみたら、1週間ほどで淋しくなって母親に迎えにきてもらった、ということがあったので、やはり親子、変なところは似ているものだ、と、ちょっと思った。(余談だが、そんなこんなで、実は千明初美「いちじくの恋」は他人事と思えないのであった(笑))

 最後にもうひとつ、戦後の話もあった。
 母が通っていた小学校は、当時としては市内の小学校では珍しい鉄筋コンクリートのモダンな建物だったそうなのだが(その小学校の校庭には子供の頃遊びにいったが、そんなに昔の建物と思っていなかったので、校舎についてはあまり記憶がないのがちょっと残念)、それ故に米軍に接収されることになり、生徒はあちこちに分散して授業を受けることになったとのことである。
 いきなり「アメリカ軍が使うことになったから」と言われ、先生も生徒も総出であわてて机や椅子を運び出すことになったのをよく覚えている、とか。記録をさぐってみたら、米軍による接収は2年間だったようなので、母が卒業するまでには元の校舎には戻れたのだろう。

 なお、父からは特に当時の話等は出てこなかった。もともとそんなに多弁な人でないこともあるが、山形の郡部の、それなりに歴史のある農家の生まれだったので、あまり語りたくなるような戦争体験というのはないのかもしれない。
 「今はマンガの方がこういう話を簡単に作れるのか」というわかったようなわからないようなコメントをもらったので、「この監督さんはものすごい調査をして作ってるので、簡単なんてことはないよ」と答えてはおいたが、もしかすると、ボキャブラリーの少ない(アニメの作り方等も特に知らない)父のコメントとしては、これでも最大級の褒め言葉ではあったのかもしれない。

 あるいはもう何年かすれば、こんな昔話もすぐには出てこなくなるかもしれない、と思うと、昨年末に両親に『この世界の片隅に』を見せることができたのはよかった、と思う次第である。

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