ロバート・シェクリイ「五分間の機会」(受講後改訳版)2016年06月12日 10時22分55秒

 そして目覚めると、ジョン・グリーアは天国の入口にいた。
 彼の前には、はるかな蒼穹と真っ白な来世の雲海が広がっており、さらに彼方には天上の永遠の太陽の下で金色に輝く夢のような都市が見えた。彼の目前におわしたのは、見上げるほどの慈愛に満ちた風貌の記録天使であった。グリーアは、自分が存外驚いていないものだな、と思ったが、それは、彼が日頃から、天国というものは特定の宗教や宗派の信徒のためだけのものではなく、あらゆる人のためのものだと信じてきたからだろうか。それでも、これまでの人生を通じ、そのことを信じきれずに思い惑うこともままあった。そして今この時にも、彼は天の采配を信じ切れておらず、ただ微笑みを浮かべるより他なかった。
「天国へようこそ」記録天使はそう言うと、重々しく真鍮の金具で綴じられた台帳を開いた。ぶ厚い眼鏡の奥で目を細めつつ、天使はびっしり書かれた名前の列をたどって指を下に走らせていたが、グリーアの記録をみつけると表情を曇らせた。天使の双翼の先が一瞬ぴくりとしたのは動揺のためか。
「なにかまずいことでもありましたか?」グリーアはたずねた。
「わたしもそう感じている」記録天使は言った。「どうやら、死の天使は定められた時刻より前に、きみをたずねてしまったようだ。彼はこのところ遅くまで働きづめだったのだが、だからといって許されるものでもないだろう。さいわいにして、これはとるに足らない誤りだと思うが」
「ぼくの死すべき時より前に連れてきてしまった、ということですか?」グリーアは言った。「とるに足らない、とは思いませんが…」
「しかしね、きみ、これはたった5分のことなのだよ。きみが気に病むほどのことでもないのではないかな。どうだろう、このくらいの違いにはお互い目をつむることにして、きみを永遠の都に送らせてもらえないかね?」
 記録天使は疑いようもなく正しかった。現世でのあと5分が、彼にどんな違いをもたらし得るというのだろう? それでもグリーアは、理由は言えないまでも、その5分が大事なのではないかと感じていた。
「ぼくにその5分をいただけないものでしょうか」グリーアは言った。
 記録天使は思いやるように彼を見やった。「もちろん、きみの方が正しい。だが、わたしも忠告しておきたい。きみは自分がどのように死んだのか覚えているかね?」
 グリーアは思い出そうとして、それから頭を振った。「どうやって?」彼は自問した。
「わたしはそれを言ってみなさいと強いるつもりはない。とはいえ、死とは決して好ましいものではない。きみは今、ここにいる。われらとともにあろうとは思わないかね?」
 それは確かに理にかなってはいた。しかしグリーアは何かが終わってはいない、という思いを振り払えずにいた。「もし、無理に思い出すことになるとしても」グリーアは言った。「ぼくはどうしてもその5分を過ごしてみたいのです」
「それでは、行くがいい」天使は言った。「わたしはここできみを待っているよ」
 そしてまた目覚めると、グリーアは現世に戻っていた。彼は薄暗くライトの明滅する金属製の丸い空間にいた。空気は澱んでおり、蒸気と機械油の臭いがした。鋼鉄の壁が波打ち、ぎしぎしと音を立てており、継ぎ目からは水が流れ込んできていた。
 グリーアは自分がどこにいるか思い出した。彼はアメリカの潜水艦インヴィクタスに乗り込む砲術将校だった。ソナー探知のミスがあり、彼らは1マイルは離れているはずの海崖にぶつかり、今まさに漆黒の海水の中をなすすべもなく沈みつつあるのだった。インヴィクタスはとっくに自らの最大潜行深度を大きく超えていた。ぐんぐん高まる水圧が艦の外殻を押しつぶすまでは、もはやほんの数分で足りると思われた。グリーアは、それがまさに5分間で起こるであろうと知っていた。
 艦内には特に騒ぎはなかった。海の男たちは、迫りくる艦壁を自分たちの身体で押し返そうとしつつ、その時を待ち、恐怖に震えてもいたが、自分たちの感情はしっかり抑え込んでいた。技術士官たちは席にとどまり、自分たちが助かりようがないことを知らせる計器の数値を淡々と読み上げていた。グリーアは、記録天使がこのこと~人生の苦い結末、凍てつく暗黒の中でのあっけなく突然の死の苦しみ~を思い出させないようにしてくれていたのだと悟った。
 それでもなお、グリーアは、記録天使にはわかってもらえないだろうとは思いつつも、自分がここにいることに感謝の念を抱いた。天上におわす人ならぬものに、地上の人たるものが感じることがどうしてわかるだろう? グリーアには、自分がふるさとにさよならを言う稀な機会を、それも、行く手に何の怖れもなしにそうできる機会を与えられていたのだ、ということがわかった。艦壁が圧壊せんとする中、彼は地球の美しさを想い、できるだけたくさん覚えていようと考えていた。まるで、異国への長旅に出るために、荷物を詰め込んでいる人のように。

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